人物

班超

Ban Chao
AD32年 – AD102年(享年70・推定)
後漢重要度 3

概要

少ない手勢で西域の諸国を漢に付けた。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の人。

関わったできごと(1)

班超の西域経営AD91年 · 当人

本文

32年、扶風郡安陵(いまの陝西省咸陽のあたり)に生まれた。父の班彪は歴史家で、前漢の歴史をまとめる仕事を始めていた。兄の班固はその仕事を継いで『漢書』を書き(『漢書』の完成)、妹の班昭は兄の死後にそれを完成させた。学者の一家に生まれた次男だった。

班超の立像
班超の立像Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

若いころは貧しく、役所で文書を書き写す仕事をして母を養った。あるとき筆を投げ捨てて、「大丈夫たるもの、ほかに志は無くとも、傅介子や張騫にならって異域で功を立てるべきだ。いつまでも筆と硯の間にいられようか」と言ったと伝わる。張騫は、前漢の時代に初めて西域へ旅した人物である(張騫の西域派遣)。周りの者は笑ったという。

当時、タリム盆地のオアシスの国々(西域)は、北の匈奴の影響下にあった。後漢の初め、光武帝は国内を固めることを優先し、西域には手を出さなかった。匈奴は南北に分かれていたが(匈奴の南北分裂)、北の匈奴はなおオアシスの国々から貢ぎ物を取っていた。73年、後漢は北匈奴への遠征軍を出し、40歳を過ぎた班超もそれに加わった。手柄を立てた彼は、わずか36人を率いて西域の国々へ使いに出される。

馬駘画報『投筆封侯』に描かれた班超
馬駘画報『投筆封侯』に描かれた班超Wikimedia Commons Ma Tai (馬駘; 1885-1937) · Public domain

最初に着いた鄯善(楼蘭)で、はじめは手厚くもてなした王の態度が、急に冷たくなった。班超は、匈奴の使者が来ているのだと見抜いた。部下を集めて言った。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。その夜、風に乗じて匈奴の使者の宿営に火を放ち、太鼓を打ち鳴らして襲いかかり、百人あまりの一行を全滅させた。翌朝、使者の首を見せられた鄯善の王は、震え上がって漢に従った。この言葉は『後漢書』の彼の伝に見える。

その後、于闐(ホータン)、疏勒(カシュガル)と、西域の国々を次々に漢の側につけていった。75年に明帝が死に、朝廷は西域から手を引こうとして班超を呼び戻した。帰ろうとすると、疏勒や于闐の人々は、彼が去れば匈奴にまた支配されると泣いてすがり、馬の脚に抱きついて離さなかったという。班超は引き返し、西域にとどまった。

彼のやり方は、漢から大軍を送ってもらうのではなく、現地の国々の兵を使うことだった。漢に従う国の兵を集めて、従わない国を攻める。国どうしの対立を利用し、王を立て替える。朝廷への上奏で、「夷をもって夷を制する」のが上策だと書いている。90年には、パミールの向こうの大国クシャーナ朝の隆盛が7万の兵で攻めてきた。班超は城に籠もって食料を断ち、援軍を求める使者を捕らえて、敵を退かせた。91年、西域を統べる長官(西域都護)に任じられ、94年までに西域の50あまりの国がすべて漢に従った(班超の西域経営)。

97年、部下の甘英を、さらに西の大秦(ローマ)へ使いに出した。甘英はパルティアを越えて、海に面した条支という地まで行ったが、そこで土地の船乗りから、海を渡るには長ければ2年かかり、故郷を恋しく思って死ぬ者も多い、と聞かされて引き返した。条支がペルシア湾の岸か地中海の岸かについては説が分かれる。パルティアが、東西の絹の交易を仲立ちする自分たちの立場を守るために、漢とローマが直接つながるのを妨げたのだ、とする見方もある。漢とローマの接触は、のちの大秦王安敦の使者を待つことになる。

30年あまりを西域で過ごし、70歳近くになった班超は、帰国を願い出た。「酒泉郡に着くことまでは望みません。ただ、生きて玉門関に入りたいのです」と書いている。妹の班昭も、兄を帰してほしいと上書した。102年、ようやく洛陽に戻り、1か月ほどで死んだ。71歳(数え)。

後任の任尚が心得を尋ねたとき、班超は、水が清すぎれば大きな魚はすまない、細かいことは大目に見て、大筋だけを押さえよ、と助言したと伝わる。任尚はこれを平凡な言葉だと思い、厳しく治めた。数年のうちに西域の国々は離反し、漢は再び西域を失った。一人の人物の手腕に頼った支配の、もろさだった。

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