人物

始皇帝

Qin Shi Huang
BC259年 – BC210年(享年49・推定)
秦重要度 5

概要

中国を初めて統一し、度量衡・文字・車軌を揃えた。長城と陵墓を築き、死後まもなく王朝は崩れる。

別名

嬴政、しこうてい

所属

秦

関わったできごと(2)

秦の中国統一BC221年 · 当人焚書坑儒BC213年(坑儒はBC212年) · 当人

本文

紀元前259年、戦国時代の趙の都、邯鄲に生まれた。父の子楚は秦の王族で、趙へ人質として送られていた。母はもと商人の呂不韋の愛妾で、子楚に譲られたとされる。『史記』には、母が子楚に嫁ぐ前に呂不韋の子を身ごもっていたという話が載っているが、後世の作り話とみる研究者が多い。名は政。趙で生まれたので趙政とも呼ばれる。

始皇帝の肖像(19世紀の絵)
始皇帝の肖像(19世紀の絵)Wikimedia Commons Unknown (18??–18??) · Public domain

幼い頃は、秦と趙の戦いのなかで、敵国の都に取り残された人質の子だった。父は呂不韋の財力と工作で秦の太子の後継に収まり、のちに王になる。父が即位から3年で死ぬと、紀元前247年、13歳で王位に就いた。実権は相国となった呂不韋が握った。

秦は西の辺境の国だったが、100年ほど前の商鞅の変法で、法と賞罰によって農民を兵とし、君主に権力を集める国に作り替えられていた。戦国の七つの国の中で、もっとも強い国になっていた。

阿房宮図。清代の袁耀作。
阿房宮図。清代の袁耀作。Wikimedia Commons Yuan Yao · Public domain

紀元前238年、成人の儀を迎えた年、母の太后の愛人だった嫪毐が反乱を起こした。王はこれを鎮めて嫪毐の一族を滅ぼし、関わりのあった呂不韋も退けた。呂不韋はのちに毒をあおって死んでいる。ここから王の親政が始まる。法家の李斯を重く用い、他国出身の者を追い出せという声には、李斯の上書を聞き入れて退けた。法家の思想家韓非の書を読んで感嘆し、会いたがったが、韓非は秦に来てまもなく獄中で死んだ。

紀元前227年、燕の太子が送った刺客荊軻が、地図に匕首を隠して謁見し、王に襲いかかった(荊軻の秦王暗殺未遂)。宮殿では臣下が武器を帯びることが許されておらず、王は柱の周りを逃げ回り、ようやく剣を抜いて刺客を倒したと『史記』は描く。

現代に残る霊渠
現代に残る霊渠Wikimedia Commons Farm · CC BY 3.0

その後10年足らずで、韓、趙、魏、楚、燕、斉の6国を次々に滅ぼした。13歳で王位に就き、数えで39歳で6国を滅ぼして統一した(秦の中国統一)。紀元前221年のことである。「皇帝」という称号はこのとき作られた言葉で、伝説の三皇五帝から一字ずつ取っている。自らを始皇帝とし、子孫は二世、三世と数えて万世に伝えると宣言した。

やったことは、揃えることだった。文字を小篆に統一し、貨幣を半両銭に、車輪の幅を揃え、度量衡を揃え、郡県を置いて中央から官を派遣した。天下を36の郡に分け、郡の下に県を置いた。封建をやめて官僚制にしたことが、後の中国の型になる。民間の武器を集めて都へ運び、溶かして12体の巨大な銅像を作らせた。全国に皇帝専用の道を通し、北の国境まで真っ直ぐに伸びる道も造らせた。

不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐巿の船。
不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐巿の船。Wikimedia Commons Utagawa Kuniyoshi · Public domain

同時に、万里の長城と阿房宮と自分の陵墓を同時に造らせた。将軍の蒙恬に30万の兵を与えて北の匈奴を討たせ、戦国の諸国がばらばらに築いていた長城をつなげさせた。いま見られる石とれんがの長城の多くは、のちの明の時代のものである。こうした工事に駆り出された人々の数は、数十万とも百万を超えるともいわれ、多くの家族が引き裂かれた。

紀元前213年、李斯の進言で、秦の記録以外の歴史書や、民間にある詩や書を焼かせた。医学や占い、農業の書は残された。翌年には、皇帝を批判した学者ら460人余りを生き埋めにしたと『史記』は伝える。焚書坑儒と呼ばれるが、埋められたのは学者というより不老不死の術をうたう方士たちだったとする見方や、規模を疑う見方もある。

劉旦宅が1959年に『歴代帝王図』の古画のスタイルを参考にして、肖像画を描いいた。
劉旦宅が1959年に『歴代帝王図』の古画のスタイルを参考にして、肖像画を描いいた。Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

不老不死の薬を求めて方士を各地へ送った。斉の方士の徐福は、数千の少年少女を連れて東の海へ仙薬を探しに出たまま戻らなかったと伝えられ、日本の各地には徐福が来たという伝説が残る。

統一の後、5度にわたって天下を巡り、泰山で天を祀り、各地の山に自分の功績を刻んだ石碑を建てた。巡幸の途中、韓の遺臣の張良が雇った力士に、重い鉄の槌で車を襲われたこともある。槌は別の車に当たって助かった。

始皇帝と臣下らの現代彫刻。西安市
始皇帝と臣下らの現代彫刻。西安市Wikimedia Commons GwydionM at English Wikipedia · Public domain

巡幸の途上で死んだ。紀元前210年、5度目の巡幸の帰り道、沙丘の地で病に倒れた。50歳。死は秘され、遺体を乗せた車の臭いをごまかすため、塩漬けの魚を積んだ車を一緒に進ませたと『史記』は書く。宦官の趙高と李斯は遺詔を偽り、長男の扶蘇に自害を命じて、末子の胡亥を二世皇帝に立てた(趙高と二世皇帝)。

ただ、2009年に北京大学が入手した漢代の竹簡には、胡亥の即位を始皇帝が認めたとする別の筋書きが書かれていた。『史記』は100年ほど後に、秦を倒した漢の側で書かれた歴史であり、どこまで正確かは、いまも出土資料と照らし合わせて検討が続いている。

帝国は4年後に崩れた。紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起き、各地で反乱が広がり、紀元前206年、秦の最後の王は劉邦に降伏した。

陵墓の兵馬俑は1974年に井戸を掘っていた農民が見つけたもので、まだ全部は掘られていない。兵馬俑の兵士は一体ずつ顔が違い、8000体に達すると推定されている。陵墓の本体の墳丘はいまも掘られていない。『史記』は、中に水銀で川や海を作ったと書いており、墳丘の土からは実際に高い濃度の水銀が検出されている。

兵馬俑に関わる図版:51714-Terracota-Army
兵馬俑Wikimedia Commons xiquinhosilva · CC BY 2.0

漢の賈誼は賈誼「過秦論」で、天下を取った後も攻める時と同じ厳しさで治めたことが、秦が早く滅んだ理由だと論じた。暴君の代名詞として語られてきた一方、統一された一つの中国という枠組みを作った人でもある。英語で中国を指す言葉は、この秦の名に由来するという説が有力である。

動画(2)

【始皇帝】キングダムのモデル「嬴政」を徹底解説【偉人伝】中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY偉人伝シリーズ。漫画『キングダム』の題材としての嬴政を入口に語る
キングダムSP 秦の始皇帝 ―「キングダム」を10倍楽しむ為の予備知識【COTEN RADIO #20】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO戦国七雄の力関係と、なぜ秦が勝ったのかを漫画を入口に説明している
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