できごと

安市城の戦い

Battle of Ansi
AD645年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD645年の版図を描いています(20勢力)。

概要

太宗が自ら高句麗を攻めた。遼東城を落とし、安市城で止まった。楊万春が守った、と伝える。土山を築いて崩れ、冬が来て、帰った。「魏徴が生きていれば、この遠征を止めた」。高句麗はあと23年持ち、唐は新羅と組んだ。

場所

安市城
40.64°N 122.50°E · 中国・遼寧省海城

関わった人(1)

唐の太宗AD598年–AD649年 · 退いた

本文

隋は、朝鮮半島の北から中国の東北に広がる高句麗を、三度にわたって大軍で攻め、そのたびに敗れていた。中国を再び一つにした(隋の中国再統一)王朝が倒れた原因の一つが、この遠征の失敗である。隋に代わった唐の唐の太宗は、はじめ高句麗とは和を保っていた。

642年、高句麗では宰相の淵蓋蘇文が、自分を除こうとした栄留王と多くの大臣を殺し、王の甥を宝蔵王として立てて、実権を握った。同じころ、半島の南東の新羅は、高句麗と百済に挟まれて攻められ、唐に助けを求めていた。太宗は、王を殺した者を討ち、属国を救うことを名目に、自ら高句麗を攻めることを決める。臣下の多くは止めたが、太宗は聞かなかった。隋の失敗をよく知っていた彼は、自分なら勝てると考えていた。

唐の太宗の肖像
唐の太宗Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

645年2月、太宗は洛陽を発った。陸からは李勣が率いる6万ほど、海からは張亮が率いる4万ほどの兵が、500隻の船で遼東半島へ向かった。唐軍は4月に蓋牟城を落とし、5月には高句麗の西の拠点の遼東城を、風に乗せた火攻めで落とした。続いて白巌城を降し、6月、遼東城の南西の安市城に迫った。

高句麗は、高延寿と高恵真に15万と号する大軍を与えて、安市城を救わせた。太宗は自ら兵を率い、近くの山に陣を敷いてこれを迎え撃った。李勣と長孫無忌らが挟み撃ちにして高句麗軍を破り、3万6800人が降った。太宗はこの山を、皇帝が足を止めた山という意味で駐蹕山と名づけた。もはや安市城を救う軍は無かった。

高句麗・唐戦争の第一次遠征(地図)
高句麗・唐戦争の第一次遠征(地図)Wikimedia Commons Historiographer at English Wikipedia · Public domain

だが、安市城は落ちなかった。城を守った将の名は、中国の史書に記されていない。「楊万春」という名は、はるか後の朝鮮王朝の時代の書物に初めて見えるもので、確かな史料の裏づけは無い。城兵は、太宗の旗を見ると、城壁の上で太鼓を打ち鳴らし、大声で罵った。怒った太宗の側で、城を落としたら男はみな殺せという声が上がると、それを聞いた城兵はいっそう固く守った。

唐軍は城の東南に土の山を築き始めた。のべ50万人を使い、60日かけて、城壁を見下ろすほどの高さにした。ところが9月、その土の山が崩れ、城壁の一角を押し潰した。そこへ城兵が飛び出して、逆に土の山を奪ってしまった。持ち場を離れていた唐の将は斬られ、唐軍は三日にわたって攻めたが、取り返せなかった。

遼東の秋は短い。草は枯れ、水は凍り始め、兵糧も尽きかけていた。9月18日、太宗は兵を引くことを決めた。城主は城壁の上に現れ、去っていく太宗に向かって拝礼した。太宗は、城を守り通した忠義をたたえ、絹100匹を贈ったと『資治通鑑』は伝える。帰りの道は、ぬかるみと吹雪の中の苦しい行軍になった。太宗も自ら草を運んで道を埋めさせたという。

都に戻った太宗は、遠征を悔やみ、魏徴が生きていれば、私にこの遠征をさせなかっただろう、と言った。皇帝を厳しく諫め続けた魏徴は、2年前に死んでいた。太宗は魏徴の墓碑を建て直させたという。その後も647年と648年に小規模な攻撃を繰り返したが、649年、高句麗を攻めることをやめよという遺言を残して死んだ。

唐は戦い方を変えた。太宗の子の高宗は新羅と手を結び、660年にまず百済を滅ぼした(百済の滅亡)。そして668年、内紛で弱った高句麗を南北から挟んで滅ぼした(高句麗の滅亡)。安市城の戦いから23年後のことである。その後、新羅は唐の軍を半島から追い出して、半島の大部分を一つにまとめる(新羅の朝鮮半島統一)。

安市城は、韓国では、大国の侵略を小さな城が退けた物語として愛されている。太宗が城から射られた矢で片目を失ったという話も伝わるが、高麗の末の詩などに見える伝説で、中国の史書には無い。2018年には韓国で、この戦いを描いた映画が作られた。城の跡は、中国の遼寧省海城市の山城とする説が有力である。

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