後漢の成立
概要
劉秀が乱を収めて漢を再興し、都を洛陽に置いた。前漢と区別して後漢と呼ぶ。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
光武帝BC5年–AD57年 · 当人本文
紀元8年、外戚の王莽が前漢の帝位を奪い、国号を新と改めた。王莽は儒教の古典に描かれた周の理想の世を本気で再現しようとし、土地をすべて国のものとして売買を禁じ、奴隷の売買を禁じ、貨幣を何度も作り替えた。どれも現実に合わず、商いは混乱し、豪族の反発を招いた。そこへ黄河の流れが大きく変わる大洪水が重なり、飢えた農民が各地で蜂起する。眉を赤く塗った赤眉の軍と、緑林山に拠った軍がその代表である(赤眉と緑林の乱)。
劉秀は紀元前5年、南陽郡の舂陵に生まれた。漢の景帝の血を引くが、枝分かれを重ねて、父は県の長官にすぎない。若いころは長安で『尚書』を学び、郷里では穏やかに畑を耕していたと伝えられる。紀元22年、兄の劉縯とともに兵を挙げたとき、慎重な劉秀まで立ったのを見て、尻込みしていた一族の者たちも安心して加わったという。

転機は翌23年の昆陽の戦いだった。王莽は大軍を送って反乱軍を潰しにかかった。『後漢書』は兵42万、百万と号したと書く。昆陽の城には数千しかおらず、劉秀は囲みを抜け出して援軍を集め、わずかな兵で敵の本陣に切り込んだ。折からの暴風雨で新の軍は総崩れになり、川に落ちて溺れた者が多かったという。数の誇張はあるとしても、この敗北で王莽の命運は尽き、同じ年のうちに長安で殺された。
勝った側では、緑林の軍が担いだ劉玄が皇帝(更始帝)になった。名声の高まった劉縯は更始帝に疑われて殺される。劉秀は兄の死を悼むそぶりを見せず、自分の手柄も語らず、更始帝に詫びを入れて身を守った。ひとりになると食も進まず、枕を涙で濡らしたと伝えられる。

やがて劉秀は、河北の平定を命じられて黄河を北へ渡った。わずかな供回りで出発し、敵対勢力に追われて飢えと寒さに苦しんだが、地元の豪族を一人ずつ味方につけていった。真定の有力な王族と縁を結ぶため、その姪の郭聖通を妻に迎えている。河北を固めると更始帝と手を切り、紀元25年6月、部下に推されて鄗の南で皇帝の位に就いた。光武帝である。同じ年の秋に洛陽を手に入れ、ここを都とした。長安は赤眉に荒らされ、宮殿も焼けていた。
天下の統一には、さらに10年余りかかった。赤眉は27年に降伏し、西方の隗囂、蜀に拠った公孫述を順に下して、36年に統一を終える。隗囂の地を得たあと、蜀を見すえて「人は満足を知らず、隴を得てまた蜀を望む」と書き送った言葉が、欲には限りがないことを言う「得隴望蜀」の故事になった。

即位後の光武帝は、戦乱で減った民を休ませることに努めた。農民の税を収穫の30分の1に戻し、地方の常備兵を大きく削り、奴隷とされた者を解放する詔を繰り返し出した。北の匈奴が内紛で南北に割れたときも、大規模な遠征は控えた。のちの漢の武帝の外征と比べると、きわめて抑えた方針である。光武帝は自らの政治を「柔の道で天下を治める」と言ったと伝えられる。
功臣の扱いも、漢の高祖劉邦とは違った。高祖が韓信や彭越ら建国の功臣を次々に除いたのに対し、光武帝は功臣に高い爵位と領地を与えて報いながら、政治の実務からは遠ざけ、官僚に任せた。功臣のほとんどは天寿を全うしている。のちに明帝が、建国の功臣28人の肖像を宮中の雲台に描かせた。

光武帝は太学を整え、儒学を修めた者を官に取り立てた。儒教が国の学問として社会に根づくのは、後漢の時代である。紀元57年、海の向こうの倭の奴国から使者が来て、光武帝は印綬を与えた。江戸時代に博多湾の志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印が、これにあたるとみられている。光武帝はこの年、数えで62歳で没した。
ただ、後漢は成り立ちからして豪族の連合だった。光武帝は39年に全国の田畑と戸口を調べ直そうとしたが、豪族の抵抗と役人の手心で、うまくいかなかった。大きな土地と多くの小作人を抱える豪族の力は、王朝のあいだ衰えなかった。2世紀の末、宮中で外戚と宦官が争い、地方で黄巾の乱が起きると、豪族は自らの兵を率いて割拠する。董卓の洛陽焼き討ちで、光武帝の選んだ都は灰になった。