文成公主の入蔵
概要
ソンツェン・ガンポが唐に妃を求め、断られ、吐谷渾を攻め、また求めて、太宗が宗室の娘を送った。仏像、経典、絹、種、暦、医書。ラサに寺を建てた。ジョカン寺。チベットは、この妃で、唐の文化と仏教を受け取ったと語る。統一チベットの始まりの物語。
場所
29.65°N 91.17°E · 中国・チベット自治区
関わった人(2)
ソンツェン・ガンポAD605年頃–AD649年 · 迎えた唐の太宗AD598年–AD649年 · 送った本文
7世紀の初め、チベット高原では、ヤルルン谷から出た王家が周りの勢力を従えて、一つの国を作り上げた。中国の史書が「吐蕃」と呼ぶ国である。その王ソンツェン・ガンポは、本拠をラサに移し、高原の統一を成し遂げた(吐蕃の高原統一)。同じころ、中国では唐の成立から間もない唐が、太宗のもとで勢いを広げていた。
634年、ソンツェン・ガンポは長安に使者を送った。唐は高原の北東の吐谷渾に皇族の娘を嫁がせていたと聞き、自分にも公主を、と求めたが、断られた。使者は、吐谷渾が邪魔をしたのだと報告したという。ソンツェン・ガンポは吐谷渾を攻め、638年には唐の西の辺境の松州に大軍で迫った。唐軍に夜襲を受けて退いたとも、和を求めたとも伝えられ、彼は改めて使者を送り、婚姻を求めた。

640年、宰相の禄東賛(ガル・トンツェン)が、黄金5000両と数百の宝物を携えて長安に入った。唐の太宗は、皇族の一人の娘を公主として嫁がせることを許した。文成公主である。実の父の名は唐の史書に記されておらず、送り届けた江夏王李道宗の娘とする伝えもある。641年正月、公主は長安を出た。青海の高原を越えて西へ向かう道は、のちに「唐蕃古道」と呼ばれる。ソンツェン・ガンポは自ら青海の柏海まで出迎え、婿として李道宗に礼をとった。我が祖先に大国の公主を娶った者はいない、と喜んだと『旧唐書』は伝える。
チベットの伝承によれば、公主は釈迦の12歳の姿を写したという仏像、経典、医学や暦の書、工芸の職人、絹、穀物の種を持参した。その仏像「ジョウォ」は、いまラサのジョカン寺の本尊として、チベットで最も尊ばれている。ソンツェン・ガンポにはネパールから迎えた妃ティツンもいて、二人の妃がそれぞれ寺を建てたとされる。湖を埋めて寺を建てるとき、山羊が土を運んだので、ラサの古い名「ラサ(山羊の土)」が生まれた、という話も伝わる。ただし、ネパールの妃については同時代の確かな記録が乏しく、実在を疑う研究者もいる。仏教がこの時代にどこまで根づいたのかも、議論が分かれている。

唐の史書によれば、ソンツェン・ガンポは公主のために城を築き、自らも毛皮の衣を脱いで絹をまとった。貴族の子弟を長安の国子監に送って、詩や書を学ばせた。唐からは紙や墨、酒造りなどの技術者を招いたという。チベットの文字は、ソンツェン・ガンポが大臣トンミ・サンボータをインドに送って作らせた、と伝えられる。唐とインドとネパールという三方の文化が、高原の新しい国に流れ込んだ時代だった。
649年に太宗が死に、翌650年にはソンツェン・ガンポも死んだ。文成公主はチベットにとどまり、680年に死んだと唐の記録にある。30年ほどを、異国の王の未亡人として過ごしたことになる。チベットでは、公主は白ターラー(観音の慈悲から生まれた女神)の化身として敬われ、ネパールの妃は緑ターラーの化身とされた。

唐と吐蕃の関係は、その後、穏やかではなかった。吐蕃は唐と西域の支配を争い、710年には別の公主(金城公主)が嫁いだが、763年には唐の都長安を一時占領するまでになる(吐蕃の長安占領)。821年から822年にかけて両国は盟約を結び、823年、その文をチベット語と漢文で刻んだ石碑がジョカン寺の前に建てられた。碑は両国の関係を「甥と舅」と記す。公主を嫁がせた唐が舅、迎えた吐蕃が甥である。
同じ一人の公主の物語は、いま異なる意味を背負わされている。中国では、漢族とチベット族の古くからの結びつきの象徴として語られ、チベットの側からは、唐が対等の相手として婚姻を結んだ証として語られる。チベット動乱の後、この違いは政治の問題になった。ラサのジョカン寺やポタラ宮には、ソンツェン・ガンポの左右に二人の妃を並べた像が置かれ、青海の高原の峠には、公主を記念する廟が建てられている。