度量衡と文字の統一
概要
枡と秤と物差しを揃え、車の幅を揃え、文字を小篆に揃えた。国ごとに違っていたものを一つにする。方言が違っても同じ字で通じる、という中国の形がここで決まる。
場所
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省
関わった人(1)
李斯?–BC208年 · 主導本文
紀元前221年、秦の王政は最後に残った斉を滅ぼし、中国を一つにした(秦の中国統一)。王は自らを皇帝と名乗った。始皇帝である。だが、一つになったのは領土だけだった。戦国の七つの国は、それぞれ長いあいだ別の国として歩んできた。物の量り方も、車の作りも、お金の形も、字の書き方も、国ごとに違っていた。
秦はもともと、物差しや枡をそろえることに熱心な国だった。紀元前4世紀、商鞅の改革で、国の中の度量衡は統一されていた(商鞅の変法)。そのときに作られた銅の枡が残っていて、その側面には、統一の年に始皇帝の詔が刻み足されている。秦の基準を、そのまま天下の基準にしたのである。

統一の年、始皇帝は丞相に命じ、ばらばらだった度量衡を一つに定めさせた。長さ、容積、重さの基準となる銅や鉄の枡と分銅が作られ、各地の役所に配られた。それらには、天下を一つにした皇帝が、量り方の違いを正せと命じた、という詔の文が刻まれている。この詔を刻んだ分銅や枡は、中国の各地から数多く見つかっている。税として納める穀物や布を同じ物差しで測れなければ、遠く離れた土地を一つの国として治めることはできなかった。
車の車輪の幅もそろえられた。当時の道は土の道で、車が通るうちに深い轍ができた。国ごとに車の幅が違えば、よその国の道では車輪が轍に合わない。始皇帝は都の咸陽から各地へ伸びる幹線の道を造らせ、同じ幅の車が天下を走れるようにした。

お金も一つにされた。戦国の国々では、小刀の形や、農具の鋤の形をした青銅の貨幣、丸い貨幣などがそれぞれ使われていた。秦は、円い形で真ん中に四角い穴の開いた「半両銭」を天下の通貨とし、ほかの貨幣を使えなくした。この円形方孔の形は、その後の中国の銅銭に受け継がれ、20世紀の初めまで使われ続けた。日本の和同開珎や寛永通宝も、同じ形をしている。
そして文字である。戦国の国々は、もとは同じ漢字を使っていたが、長い分裂のうちに、同じ字でも国ごとに形が大きく違うようになっていた。丞相の李斯らは、秦の字体をもとに整えた「小篆」を正式の字体と定め、手本となる字書を作った。秦以外の国の字体は使われなくなっていった。

ただし、役所の日々の文書がすべて小篆で書かれたわけではない。1975年に湖北省の睡虎地で見つかった秦の役人の墓からは、法律や記録を書いた竹簡が大量に出てきた。そこに書かれていたのは、小篆を崩して早く書けるようにした、隷書に近い字だった。小篆は石碑や詔などの正式な場の字で、実務の現場では、より書きやすい字が育っていたのである。この隷書が、のちの漢の時代に広まり、いまの漢字の形の土台になる。
文字をそろえることには、もう一つの面があった。紀元前213年、李斯の進言によって、秦の記録や医術・占い・農業の書を除く書物が集められて焼かれた(焚書坑儒)。字体を一つにし、思想も一つにしようとしたのである。

秦は始皇帝の死後まもなく乱れ、統一からわずか15年で滅んだ。だが、そろえられたものは残った。秦に代わった漢は(漢の成立)、秦の度量衡と文字と郡県の仕組みをほぼそのまま引き継いだ。
中国の各地では、いまも互いに通じないほど違う言葉が話されている。それでも、同じ漢字で書けば文書は通じる。話し言葉が違っても書き言葉で一つにつながる、という中国の形は、この統一から始まった。量り方と道とお金と字。目立たないものをそろえたことが、二千年あまり、中国が一つであろうとし続ける土台になった(物語「中華の統一」)。