人物

陶淵明

Tao Yuanming
AD365年 – AD427年(享年62・推定)
東晋重要度 4

概要

曾祖父は東晋の大司馬だったが、家は貧しかった。役人を五度やめ、最後に「帰去来の辞」を書いて帰り、畑と酒と詩で暮らした。「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」。桃源郷の話を作った。

関わったできごと(1)

陶淵明「帰去来の辞」AD405年 · 詩人

本文

陶淵明は、東晋の末から南朝の宋の初めにかけて生きた詩人である。名は潜、字は淵明とも、名が淵明で字が元亮ともいわれ、古くから説が分かれる。故郷は潯陽郡の柴桑、いまの江西省九江市のあたりで、すぐ南に廬山がそびえる。役人の暮らしを捨てて田園に帰り、畑を耕し、酒を飲み、詩を書いた。後の中国で「隠者」と言えば、まずこの人の姿が思い浮かぶ。

清方薫模宋何氏画
清方薫模宋何氏画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

生まれは365年とされるが、これも諸説ある。曾祖父の陶侃は、東晋の成立ののち反乱の鎮圧に功を立てて大司馬にまで上った武人で、母方の祖父の孟嘉も名の知られた名士だった。だが陶淵明が生まれたころには家は傾いていて、父の名もはっきりしない。自分で書いた伝記風の文章「五柳先生伝」には、家が貧しくて酒をいつも手に入れられるわけではなく、親類や旧友が酒を用意して招けば、行ってすっかり飲み尽くした、とある。少年時代の383年には、北から攻め寄せた前秦の大軍を東晋が退けた淝水の戦いがあった。

29歳ごろ、生活のために州の祭酒という役に就いたが、勤めに耐えられずすぐに辞めた。その後も、地方の軍閥の桓玄の幕下に入り、母の死で喪に服して故郷へ戻り、やがて劉裕(のちの宋の武帝)の参軍となるなど、仕えては辞めることを繰り返した。東晋の朝廷は、軍人たちの争いの中で力を失いつつあった。

陶淵明の肖像
陶淵明の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

405年、彭沢県の県令になった。県の公田に、酒を造るための糯米をすべて植えさせようとしたところ、妻に食べる米も要ると強く言われ、一部を普通の米にした、という話が『宋書』にある。着任して八十日あまりたったころ、郡から監察の役人が来ることになり、正装して出迎えるよう言われた。陶淵明は、わずかな俸禄のために田舎の小役人に腰を折ることはできない、と言ってその日のうちに印綬を返し、故郷へ帰ったと伝えられる。このとき書いたのが「帰去来の辞」である(陶淵明「帰去来の辞」)。本人は序文で、嫁いだ妹の死を辞職の理由に挙げている。

それからの二十年あまりを、陶淵明は柴桑の田園で過ごした。「園田の居に帰る」では、長いあいだ籠の中にいたが、ようやく自然に返ることができた、と詠んだ。連作「飲酒」の一首では、人里に家を構えていても車馬の騒がしさはない、心が世間から遠ければ住む土地も自然と辺鄙になる、と歌い、菊を東の垣根のもとで摘み、ゆったりと南の山を見る、と続ける。のちに夏目漱石が『草枕』でこの一節を引き、俗世を離れた境地の例として挙げている。

陶淵明・『晩笑堂竹荘畫傳』より。絃のない琴を抱えるのは、昭明太子蕭統の「陶淵明伝」に記された故事による。
陶淵明・『晩笑堂竹荘畫傳』より。絃のない琴を抱えるのは、昭明太子蕭統の「陶淵明伝」に記された故事による。Wikimedia Commons Public domain

だが田園の暮らしは、楽なものではなかった。408年には火事で家を失い、晩年には飢えて食べ物を乞いに出た詩まで残している。「子を責む」では、五人の息子が揃いも揃って学問をしないと嘆き、天の定めがこうならば、まあ杯の中の物でも飲むとしよう、と結ぶ。苦しさを笑いに変える軽みが、この人の詩の持ち味である。

晋の役人たちが訪ねてくることもあった。地方長官が肉や米を贈ろうとすると、陶淵明は受け取らなかったという。弦のない琴を一張持っていて、酒が回るとそれを撫でて、琴の趣が分かれば弦の音など要らない、と言ったという逸話も伝わる。廬山の高僧慧遠の結社に誘われ、酒を飲んでよいならと出かけたが、眉をひそめて帰ってきた、という話もあるが、これは後世の伝説とされる。

陶淵明を描いた陳洪綬の絵
陶淵明を描いた陳洪綬の絵Wikimedia Commons Chen Hongshou · Public domain

420年、劉裕が東晋の帝位を奪って宋を建てた(劉裕の宋建国)。『宋書』は、陶淵明がそれ以後、作品に宋の年号を使わず干支だけを記したと書き、晋への忠節の表れとした。後世の学者の調べでは、晋の時代の作品にも干支だけのものがあり、この解釈は当たらないとされている。

427年に死んだ。63歳とされるが、50代で死んだとする説もある。死の前に、自分の葬儀のための「自祭文」と、自分を悼む挽歌を書いていた。死んでしまえば何を言うことがあろう、体を山の土に託すだけだ、と。友人たちは彼に「靖節」という諡を贈った。

生前、陶淵明の詩は、技巧を凝らした美文が好まれた時代の中で、平易すぎると見られた。梁の時代の詩の評論『詩品』も、彼を上中下の中に置いた。その価値を見いだした一人が、梁の皇太子蕭統(昭明太子)である。太子は彼の文集を編んで序と伝を書き、『文選』にも作品を収めた(『文選』)。唐になると王維や孟浩然らの田園詩人が彼に学び、宋の蘇軾は陶淵明の詩のほとんどに唱和する詩を作って、李白や杜甫も及ばない、とまで言った。

『文選』に関わる図版:Zhao Ming Wen Xuan, He edition
『文選』Wikimedia Commons He Zhuo 何焯 (Life time: AD 1661 - 1722) · Public domain

陶淵明が書いた「桃花源記」は、漁師が川をさかのぼって、外の世界の戦乱を知らずに暮らす村に迷い込む話である。帰った漁師は二度とその村を見つけられなかった。「桃源郷」という言葉は、この短い物語から生まれた。

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