馮道の儒教経典刊行
概要
932年に始めて21年、九経を木版で刷って完成させた。国が経典を印刷した最初になる。五代の乱の中で、宰相が始めた事業が、王朝を四つ越えて終わった。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
関わった人(1)
馮道AD882年–AD954年 · 宰相本文
唐が滅んだあとの華北では、わずか半世紀あまりの間に、後梁、後唐、後晋、後漢、後周という五つの王朝が入れ替わった(五代十国)。皇帝は軍人たちに担がれては倒され、都は戦のたびに焼かれた。そのような時代にも、役人を選び、礼を定め、国を治めるための拠りどころとして、儒教の経典は欠かせなかった。ところが、経典は人の手で写して伝えられていたため、写本ごとに字が違い、誤りも多かった。
唐の時代には、正しい本文を定めるために、経典を石に刻んで長安の学府に立てたことがある。837年に完成した開成石経で、114枚の石に65万字ほどが刻まれていた。学ぶ者はその拓本を取るか、写すしかなかった。一方、木の板に字を彫って紙に刷る技術は、唐の後半から、仏教の経文や暦、字引などを刷るために民間で使われはじめていた。

版で刷ることの強みは、一度板を彫れば、同じ字の本を何百部でも何千部でも作れることにある。写本では、写すたびに新しい誤りが入り込む。逆に言えば、版に誤りがあれば、その誤りもそのまま何千部に広がる。だからこそ、国が責任を持って本文を定め、念入りに校べてから彫ることに意味があった。
932年、後唐の明宗のとき、宰相の馮道と李愚が上奏した。経典は写しごとに違って誤りが多いので、開成石経をもとに国の学府である国子監で字を校正し、木の板に彫って刷り、天下に広めるべきだ、というのである。明宗はこれを許した。国が自ら儒教の経典を印刷して世に出すという、それまでに無い事業が始まった。
仕事は簡単ではなかった。経典の字を一つ一つ校べ、学者が定めた本文を書き手が清書し、それを職人が板に彫る。板は経典ごとに何百枚にもなる。校正の中心となったのは、国子監の学者田敏だった。そのあいだに後唐は滅び、後晋が立ち、後晋も北の契丹に滅ぼされて後漢が立ち、後漢もわずか数年で後周に取って代わられた。都の主が替わっても、事業は止まらなかった。馮道は王朝が替わるたびに新しい皇帝に仕え、宰相の地位にあり続けた。
953年、後周の太祖の広順3年、ついに完成した。『易』『書』『詩』、三つの礼の書、『春秋』の三つの注釈書という九経に、『論語』『孝経』『爾雅』を加え、全部で130巻あまりに及んだ。始まってから21年がたっていた。この版は、国子監が刷ったことから、のちに「五代監本」と呼ばれる。国子監は刷った本を売りに出し、学ぶ者は誰でも、同じ正しい本文の経典を買えるようになった。翌年、馮道は数えの73歳で世を去る。
数年後、後周を継いだ宋は、この事業を受け継いだ(宋の成立)。宋の国子監は経典ばかりでなく、歴史書や医書まで次々に版木に彫り、各地の学校に本を配った。宋の時代、科挙(科挙の始まり)に挑む人びとは、印刷された同じ本文で学ぶようになり、受験する者の数も大きく増えた。11世紀には畢昇が活字を工夫する(畢昇の活字)。宋の学者沈括は、その随筆『夢渓筆談』で、唐の人はまだ本を版で刷ることは盛んでなかったが、馮道が五経を刷ってから、書物はみな版本になった、という趣旨のことを書いている。
ところが、同じ宋の人びとは、馮道その人を厳しく責めた。欧陽脩は歴史書の中で、五つの王朝と十人ほどの君主に仕えた馮道を、恥を知らない者の例として挙げ、司馬光も、悪い臣下の最たる者と断じた。主君が替わるたびに仕える先を替える生き方は、忠義を重んじる宋の儒学からは許されなかった。一方で、馮道が戦乱の中で人びとの暮らしを守ろうとしたことを認める声も、昔から絶えない。
いま、五代監本は一枚も残っていない。しかし、宋の時代に刷られた経典の多くは、この版を元にしたと考えられている。五代は、王朝が目まぐるしく入れ替わった乱世として語られることが多い。だが、学ぶための本を買えるようになったのは、その乱世の中で21年をかけた一つの事業からだった。