孝文帝
概要
4歳で即位し、祖母の馮太后が23歳まで政治を執った。自分で執ってから10年で、都を移し、言葉と服と姓を漢のものに変え、鮮卑と漢の貴族を結婚させた。33歳で死んだ。鮮卑の兵はこれを恨み、25年後に反乱して北魏を割った。
関わったできごと(1)
孝文帝の洛陽遷都と漢化AD494年 · 皇帝本文
孝文帝は北魏の第七代の皇帝で、名を拓跋宏という。のちに自分で姓を「元」に改めたので、元宏とも書く。北魏の建国から約80年、鮮卑の拓跋部が華北を治める国は、北魏の華北統一を経て大きくなっていたが、都は北の平城(いまの大同)にあり、支配者は遊牧の言葉を話し、遊牧の服を着ていた。孝文帝はこれを一代で変えようとした皇帝である。

467年に生まれた。父の献文帝はまだ十代の前半だった。北魏には、皇太子が立つとその生母を殺すという慣例があった。外戚が力を持つのを防ぐためで、「子貴母死」と呼ばれる。孝文帝の生母の李夫人も、彼が皇太子に立てられたあとに死を賜った。471年、父は18歳で位を譲らされ、孝文帝は数えの5歳で即位した。父は太上皇として5年後に死に、祖母の馮太后が毒を盛ったと『魏書』は伝える。
政治を執ったのはこの馮太后である。北燕の王族の血を引く漢人の女性で、490年に死ぬまで、孫の名で国を動かした。役人に給料を払う俸禄制(484年)、農民に土地を割り当てる均田制(485年)、五家を隣、五隣を里、五里を党としてそれぞれに長を置き、戸籍と税を押さえる三長制(486年)は、この時期に作られた。均田制は形を変えながら隋と唐に受け継がれる。部族の連合だった北魏を、文書で人と土地を数える国家に変えたのは太后であり、孝文帝はそれを間近で見て育った。

二人の関係は単純ではない。『魏書』によれば、太后は幼い孝文帝の聡明さを恐れ、寒い時期に部屋に閉じ込めて三日食事を与えず、廃そうとしたが、重臣に諫められて思いとどまった。それでも孝文帝は太后を恨まず、太后が死ぬと五日のあいだ水も口にせず、漢の礼にならって三年の喪に服そうとして群臣に止められたという。
490年から自分で政治を執った。儒教の礼を朝廷に入れ、祭祀を改め、南朝の南斉に送った使者に向こうの制度を学ばせた。そして493年、南斉を討つと称して大軍を率いて南に下り、長雨の洛陽で進軍をためらう群臣に、それならここを都にしようと持ちかけた。翌494年、正式に都を移した(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。そこから数年で、朝廷での鮮卑語を禁じ、鮮卑の服を漢の服に替えさせ、拓跋をはじめとする鮮卑の姓を漢風の一字や二字の姓に改めさせた。洛陽に移った者は死んでも北に帰葬せず、洛陽に葬ることとした。

婚姻も使った。孝文帝は自ら范陽の盧氏、清河の崔氏、滎陽の鄭氏、太原の王氏といった漢人の名門から妃を迎え、弟たちにも名門の娘を娶らせた。鮮卑の有力な家と漢人の名門を同じ家格の表に並べ、両者を一つの貴族層にまとめようとしたのである。
反発は身内から出た。皇太子の元恂は洛陽の暑さを嫌い、漢化に反対して平城へ逃げようとし、廃されたのちに死を賜った。平城では鮮卑の重臣が反乱を企て、鎮圧された。孝文帝は改革を緩めなかった。
晩年は南斉との戦いに費やした。497年、498年と続けて出兵し、499年の遠征の途中で病が重くなり、陣中で死んだ。数えの33歳。死の直前には、皇后の馮氏(馮太后の姪)に不義があったとして、死を賜るよう遺詔した。後を継いだ宣武帝はまだ十代の半ばだった。
孝文帝の時代、洛陽の南の伊水のほとりで龍門石窟の開削が始まった。平城の西の雲岡石窟の造営に続く国家の造像で、洛陽には寺院が次々に建てられた。
その改革は国を一つにしたのか、割ったのか。北の国境には、都を守るために置かれた六つの鎮があり、鮮卑の兵が詰めていた。都が南に移ると、彼らは出世の道から外れ、洛陽の漢化した貴族との差は開く一方になった。孝文帝の死から25年ほどのち、六鎮の兵が反乱を起こし、その混乱から出た爾朱栄が528年に洛陽へ入り、黄河のほとりの河陰で皇族と官人を千人以上殺した。北魏はやがて東と西に割れ(東魏と西魏の分裂)、洛陽は戦場になって荒れ果てた。楊衒之の『洛陽伽藍記』は、廃墟になった都を見て、かつての寺々の姿を書き留めた本である。
それでも、孝文帝が進めた制度は消えなかった。歴史家の陳寅恪は、隋と唐の制度の源の一つを北魏から北斉への流れに求めた。均田制と、鮮卑と漢の血の混じった貴族層は、西魏・北周を経て隋の中国再統一の担い手となり、唐の皇帝たちもその中から出た。唐の太宗の一族も、この混じり合った貴族の一つだった。急ぎすぎた改革として語られる一方で、その上に次の三百年の中国が立っている。