周の宣王の中興
概要
共和の14年のあとに即位し、周を一時立て直した。西の犬戎と南の楚を討つ。その子の幽王が国を失い、周は東へ移る。
場所
34.23°N 108.75°E · 中国・陝西省西安南西(西周の都)
本文
紀元前11世紀に殷を倒した周は、王の一族や功臣を各地に封じて国を治めた。周公旦の摂政の時代に固められたこの仕組みは、200年ほどは働いた。だが紀元前9世紀に入ると、王の力は目に見えて衰えていた。周の穆王の遠征の伝説は、遠い昔の栄光として語られるだけになっていた。
宣王の父、厲王は、山や川の産物から上がる利益を王のものとして独り占めし、それを批判する人々を厳しく取り締まったと伝えられる。重臣の召公は、民の口を防ぐのは川をせき止めるより危うい、と諫めたが、王は聞き入れなかった。紀元前842年、都の人々が王宮を襲い、厲王は都を追われて、遠い彘の地へ逃れた。
人々は、王の子の静も殺そうとした。召公は静を自分の家にかくまい、押し寄せた群衆に、自分の子を王子だと偽って差し出した、と『史記』は書いている。王のいない都では、重臣たちが合議で政治を執った。この期間を「共和」と呼ぶ(共和)。共和の元年にあたる紀元前841年は、中国の歴史で年がはっきり分かる最初の年とされる。

14年後、厲王が逃亡先で死ぬと、成長した静が王位に就いた。紀元前827年、宣王の即位である。在位は46年に及んだ。即位を支えたのは、命がけで彼を守った召公と、共和の政治を担った重臣たちだった。若い王は、王の力だけでは国を保てないことを身をもって知っていたことになる。
宣王は、周の周りを脅かす勢力と戦った。北西からは玁狁と呼ばれる遊牧の人々が攻め込み、南では淮水の流域の人々や、長江中流の楚が力を伸ばしていた。宣王は将軍たちを送り、これを押し返した。『詩経』には、この遠征を歌った詩が収められている。将軍の尹吉甫が北の敵を討った「六月」、方叔が南の楚を討った「采芑」などである。

戦いの記録は、青銅器の銘文にも残っている。将軍が玁狁を討ち、多くの首を取り捕虜を得て王から褒美を賜ったことを記した盤や、王が重臣に政治を託す長い言葉を刻んだ鼎が知られている。2003年に陝西省で見つかった青銅器には、周の歴代の王の名と、それに仕えた一族の功績が並べて刻まれており、宣王の時代に作られたものと考えられている。
『詩経』には、宣王の重臣たちをたたえる詩も多い。尹吉甫が作ったと伝わる詩は、王の命を受けて南の地に封じられる重臣を送り出し、また王の政治を補佐する賢臣の徳を歌う。後の儒者たちは、こうした詩を、王が賢い臣下を得て国を立て直した証しとして読んだ。
後世の人々は、宣王の時代を「中興」と呼んだ。一度傾いた王朝を立て直した、という意味である。だが、その中興には陰りもあった。『国語』によれば、宣王は王みずから田を耕して天に豊作を祈る古い儀式をやめ、重臣に諫められても改めなかった。また、民の数を自ら数えさせ、兵と税を取り立てようとしたとも伝わる。
晩年は敗戦が続いた。西方の戎との戦いに敗れ、南方から集めた軍を失った、と『国語』は記す。罪の無い臣下を殺し、その亡霊に矢で射られて死んだ、という怪しい話まで、のちに語られるようになった。
子の幽王が後を継いだ。幽王は褒姒という女性を寵愛し、正室とその子の太子を退けた。正室の実家の申侯は、西方の犬戎と結んで都を攻めた。紀元前771年、幽王は驪山のふもとで殺され、都の鎬京は荒らされた。笑わない褒姒を笑わせるために、敵も来ないのに烽火を上げて諸侯を集めた、という有名な話は、後の時代に作られた伝説とみられている。
翌年、太子だった平王は東の洛邑へ都を移した(周の東遷)。ここから東周、そして諸侯が覇を競う春秋の時代(春秋の争覇と鉄製農具)が始まる。宣王の46年は、西周の最後の光になった。