できごと

玄武門の変

Xuanwu Gate Incident
AD626年7月2日
重要度 4
玄武門の変に関わる図版:TangTaizong
TangTaizong Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

概要

唐の二代目は、宮殿の北門で兄と弟を射殺して皇太子になった。二か月後に父を退位させる。その後の治世が「貞観の治」として理想の政治になったので、この朝のことは薄く書かれた。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

関わった人(1)

唐の太宗AD598年–AD649年 · 殺した側

本文

唐を建てた高祖李淵には、正妻の産んだ息子が四人いた。三男は早く亡くなり、残ったのは長男の李建成、次男の李世民、四男の李元吉である。618年に唐が建つと、建成が皇太子になった。だが、隋の末の群雄を一つずつ倒して唐の成立を確かなものにした戦いの多くを指揮したのは、世民だった。

621年、世民は洛陽に立てこもった王世充と、救いに来た河北の竇建徳を、一度の戦いで同時に破った。功があまりに大きく、それまでの官ではふさわしい位がないとして、天策上将という新しい称号が作られた。世民の屋敷には、房玄齢、杜如晦といった知恵者と、尉遅敬徳、秦叔宝のような猛将が集まった。一つの政府がもう一つあるようなものだった。

小説に描かれた玄武門の変
小説に描かれた玄武門の変Wikimedia Commons (清)褚人獲彙(編);《古本小說集成》編委員 · Public domain

皇太子の建成は、弟の力を恐れた。元吉は建成について、二人で世民を除こうと図った。世民が建成の屋敷で酒を飲んで血を吐いたという話も伝わる。ただ、唐の歴史書は世民が皇帝になってから編まれたもので、兄たちを悪く書く向きがあり、どこまでが本当かは分からない。高祖は兄弟の争いを知りながら、皇太子を替えることも、世民の力を削ることもできなかった。

626年の夏、北方の騎馬の民である突厥が攻めてくるという報せが入った。元吉が討伐の軍を率いることになり、世民の配下の将と兵を自分の軍に引き抜こうとした。世民の手足をもぐ動きだった。世民の側近たちは、先に手を打つよう迫った。世民は父に、兄と弟が後宮の妃たちと通じていると訴え、高祖は翌朝、三人を呼んで問いただすことにした。

唐の高祖(李淵)の肖像画
唐の高祖(李淵)の肖像画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

7月2日の朝、世民は長孫無忌らとともに、宮城の北の門である玄武門に兵を伏せた。宮城へ入るにはこの門を通る。門を守る将の常何は、もとは建成の配下だったが、世民はすでに味方につけていた。何も知らない建成と元吉が馬で門を入り、異変に気づいて引き返そうとしたところへ、世民が追いすがり、建成を自分の矢で射殺した。元吉は世民に矢を放ったが当たらなかった。世民の馬が林に駆け込んで倒れ、元吉は世民の弓を奪って首を絞めようとした。そこへ尉遅敬徳が駆けつけ、元吉を射殺した。

皇太子の東宮と元吉の屋敷の兵2000ほどが門に押し寄せ、激しく攻めた。尉遅敬徳が建成と元吉の首を掲げて見せると、兵たちは散っていった。

その間、高祖は宮中の池に舟を浮かべていた。尉遅敬徳が鎧をつけ、矛を持ったまま現れ、皇太子と斉王が乱を起こしたので秦王が討った、陛下をお守りに参った、と告げた。高祖は側近に、どうしたらよいかと尋ねた。答えは、秦王に国のことを任せるべきだ、というものだった。高祖はその日のうちに世民の言うとおりにし、まもなく皇太子に立てた。そして約2か月後に位を譲り、世民が即位した。これが唐の太宗である。建成と元吉の息子たちは、幼い者も含めて全員が殺された。

太宗は兄の配下を罰しなかった。建成に、早く世民を除くよう勧めていた魏徴を呼び出し、なぜ兄弟の仲を裂いたのかと問うと、魏徴は、皇太子が私の言うことを聞いていれば今日の災いはなかった、と答えた。太宗はその率直さを買って側に置き、魏徴は以後、遠慮のない諫めで名を残した。

太宗は即位から十数年後、自分の治世を記した実録を読みたいと言った。皇帝が自分の記録を見るのは例のないことで、臣下は渋ったが、結局、房玄齢らが整えて差し出した。玄武門の日のことがぼかして書かれているのを見た太宗は、周公旦の摂政で周公旦が乱を起こした兄弟を討って周を安んじたのと同じことだ、飾らずに書け、と命じたと伝えられる。皇帝が自ら記録に手を入れさせたことになり、玄武門の記述が太宗に都合よく整えられたと疑う研究者は多い。

兄と弟を殺し、父を退かせて位についた皇帝のその後の23年は、貞観の治と呼ばれ、臣下の諫めをよく聞く理想の政治として後の世の手本になった。日本の皇帝や将軍も、太宗と臣下の問答を集めた『貞観政要』を読んだ。その始まりに、この朝の血が流れている。

同じ時代のできごと

ハルシャ王の北インド統一AD606年遣隋使AD607年ヘラクレイオスの治世610年大運河の完成AD610年薩水の戦いAD612年コルンバヌスのボッビオAD614年唐の成立AD618年ヒジュラ(聖遷)AD622年
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