できごと

賈誼「過秦論」

Jia Yi's "The Faults of Qin"
BC175年頃
年に諸説あり重要度 3
古シベリアの狩猟採集民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民スキタイ匈奴テュルク系の諸部族月氏タイ系の人びとバクトリアマレー系の人びとツングース系の人びとモン・クメール系の人びとシャンシュン王国Min-YueアイヌNan-Yue鉄器時代の首長制社会シンハラBC175年頃長安
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC175年頃の版図を描いています(18勢力)。

概要

20歳で博士になった秀才が、秦がなぜ15年で滅んだかを書いた。「仁義を施さず、攻守の勢いが異なるのに気づかなかった」。長沙に左遷され、鵩鳥の賦を書き、33歳で死んだ。漢の政治論の手本になり、司馬遷が本文に引いた。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

関わった人(1)

賈誼BC200年–BC168年 · 著者

本文

賈誼は洛陽の人である。18歳で詩書をそらんじ、文章が巧みだとして郡じゅうに名が知れた。河南郡の長官だった呉公がその才を愛し、手元に置いた。呉公は秦の丞相李斯と同郷で、李斯に学んだこともあったと伝えられる。文帝(漢)が即位すると、治績の高い呉公を中央の高官に引き上げ、呉公は賈誼を推した。賈誼は博士となった。『史記』は、このとき二十いくつで、博士の中で最も若かったと書く。

朝廷で詔の意見を求められると、年老いた博士たちが答えられない問いに、賈誼はすらすらと答えた。皆が、自分の言いたかったことを彼が言ってくれると感じたという。文帝は喜び、一年のうちに太中大夫に昇らせた。賈誼は、漢が建って二十年あまりたつのに、暦も服の色も官職の名も秦のものをそのまま使っていることを正そうとした。暦を改め、色は黄を尊び、数は五を用い、礼楽を興す、という案である。文帝は即位したばかりで、まだ手が回らないとして退けた。

賈誼
賈誼Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

文帝は彼を大臣の列に加えようとした。そこへ漢の建国以来の功臣、周勃や灌嬰らが反対した。洛陽の若者が学び始めたばかりで権を専らにし、事を乱そうとしている、という言い分である。文帝もしだいに遠ざけ、賈誼は南方の長沙国へ、王の守り役として出された。事実上の左遷である。湘水を渡るとき、彼は百年あまり前にこの地方で身を投げた屈原を悼む賦を作った。長沙の地は低く湿っていて、自分は長く生きられないだろうと思い悩んだ。三年目、フクロウに似た不吉な鳥が部屋に入ってくると、「鵩鳥の賦」を書いた。万物は移り変わり、生と死もその一つにすぎない、と荘子の思想に自らを慰める作である。

一年あまりのち、賈誼は都に呼び戻された。文帝は宮殿の宣室で、鬼神の本質について彼に尋ね、話は夜中に及んだ。文帝は思わず座を前へ進めたという。唐の李商隠は、この場面を詩にして、夜中に座を進めながら民の暮らしを問わずに鬼神を問うたのが惜しい、と詠んでいる。賈誼は文帝の愛した末子、梁の懐王の守り役に任じられた。

都にいるあいだ、賈誼はたびたび上書した。『漢書』に残る長い上書では、天下の情勢には痛哭すべきことが一つ、涙を流すべきことが二つ、長く嘆息すべきことが六つある、と書き出す。最大の憂いは、領地を広く持つ諸侯の王たちだった。王国の力を削ぐには、一つの国を多くの子に分けて封じ、それぞれの力を小さくすればよい。この案はすぐには採られなかったが、呉楚七国の乱を経て、のちに武帝の時代の推恩の令として実を結ぶ。北方の匈奴に対しては、贈り物と厚遇で心をつかむ策を説いた。

BC169年、懐王が落馬して死んだ。子がなかった。賈誼は守り役の務めを果たせなかったと自分を責め、一年あまり泣き暮らして、33歳で死んだ。

「過秦論」がいつ書かれたのかは、はっきりしない。上中下の三篇からなり、秦が辺境の一国から身を起こし、孝公以来の代々の君主が力を積み上げて六国を併せ、天下を一つにした過程を描く(秦の中国統一)。それほどの国が、貧しい一兵卒の陳渉が木を切って武器とし、竿を立てて旗とした反乱で崩れた(陳勝・呉広の乱)。なぜか。賈誼の答えは「仁義を施さず、攻めると守るとでは勢いが異なることを知らなかった」である。天下を取るには力と謀りごとが要るが、取った天下を守るには民を安んじる政治が要る。秦はその切り替えを誤り、統一からわずか十数年で滅んだ。

この論は、秦の失敗を鏡にして漢の政治を説く手本になった。司馬遷は『史記』の秦始皇本紀の終わりの論評に、賈誼のこの論を長く引いている。陳渉の世家の最後にも引用がある。のちには詩文の選集『文選』にも収められ、名文として読み継がれた。司馬遷は賈誼を屈原と同じ一つの伝にまとめた。才がありながら用いられず、遠ざけられて世を悼んだ二人として並べたのである。

後世の評価は分かれる。宋の蘇軾は「賈誼論」で、才があるのが難しいのではない、その才を自分でどう用いるかが難しいのだ、と書いた。賈誼は待つことができず、功臣たちと折り合いをつける前に何もかも変えようとして退けられ、思いつめて若くして死んだ、という見方である。一方で、彼の構想の多くが、のちの漢で現実の政策になったことも確かである。秦の滅亡の理由を問うた若者の答えは、それから二千年あまり、王朝が倒れるたびに読み返されることになった。

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