蘇武
概要
BC100年、匈奴へ。副使が謀反に加わって、蘇武も捕えられた。剣で自殺しようとして止められた。李陵が説得に来て「私の家族は皆殺しになった」。「私は臣として」。北海。19年。帰って、息子は謀反で死に、80歳で死んだ。『蘇武牧羊』は京劇に。
所属
前漢関わったできごと(1)
蘇武の帰還BC81年 · 帰った本文
蘇武、字は子卿。紀元前140年ごろ、都の長安に近い杜陵に生まれた。父の蘇建は、匈奴と戦った大将軍衛青の部将として功を立て、平陵侯に封じられた人である。蘇武は兄の蘇嘉、弟の蘇賢とともに、父の功によって宮中に仕える郎となり、やがて宮中の馬を管理する役に就いた。

漢と北方の遊牧国家匈奴は、漢の武帝の時代、半世紀近く戦いと交渉を繰り返していた。使者は互いの国に送られ、相手の気に入らなければ留め置かれた。かつて西域へ向かった張騫も匈奴に10年ほど引き留められている(張騫の西域派遣)。紀元前100年、匈奴の新しい単于が和を求めて漢の使者を返してきたので、武帝は返礼として、漢に留めていた匈奴の使者を送り返すことにした。その使節の長に選ばれたのが、中郎将の蘇武だった。手には、皇帝の使者であることを示す「節」を持った。竹の竿に旄牛の尾の飾りを付けたものである。副使は張勝、随員に常恵がいた。
匈奴に着いたところで事件が起きた。匈奴の中にいた漢からの降人たちが、単于の母を奪って漢へ逃げ、単于に重用されている漢人の衛律を殺そうと企てた。副使の張勝がひそかにこれに加わっていた。企ては露見し、蘇武にも累が及んだ。蘇武は、節を辱めて生き延びたら、どの顔で漢に帰れるか、と言って自ら剣で胸を刺した。衛律は驚いて医者を呼び、地面に穴を掘って弱い火を入れ、その上に蘇武を伏せて背を踏み、血を出させて命を救ったと『漢書』は書く。

傷が癒えると、衛律は降伏を迫った。自分は漢に背いて匈奴の王となり、数万の民と山のような家畜を持っている、あなたも降れば同じになれる、と。蘇武は、人の臣でありながら恩に背き、君主を裏切って蛮夷に降った者の顔など見たくもない、と突っぱねた。単于はますます降らせたくなり、蘇武を穴倉に閉じ込めて食べ物も水も与えなかった。蘇武は雪をかじり、毛織物の毛と一緒に飲み込んで、数日を生き延びた。匈奴の人々は神がかりだと思ったという。
単于は蘇武を北海のほとりに送り、雄の羊を飼わせた。この雄羊が乳を出したら帰してやる、という。つまり二度と帰さないということだった。北海はいまのバイカル湖のあたりと考えられているが、確かではない。食糧は届かず、蘇武は野ネズミが巣に蓄えた草の実を掘り出して食べた。漢の節を杖にして羊を追い、寝るときも起きるときも手放さなかったので、節の飾りの毛はすべて抜け落ちた。単于の弟の於靬王がこの地に狩りに来て蘇武を気に入り、衣服や食べ物、天幕を与えたが、数年で死んだ。その後、近くの丁令の人々に羊を盗まれ、蘇武はまた窮した。

匈奴に来て数年後、旧友の李陵が訪ねてきた。李陵は紀元前99年、わずか5000の歩兵で匈奴の大軍と戦い、力尽きて降った将軍である。武帝の怒りを買い、長安に残った家族は殺された。李陵をかばった歴史家の司馬遷は宮刑に処された。単于は李陵を蘇武の説得に送った。李陵は蘇武の家族の消息を語った。兄は皇帝の車を引く役で車の軸を折って罪に問われ、自ら命を絶った。弟は追うべき犯人を取り逃がして毒を仰いだ。母はすでに亡くなり、妻は再婚した。残る妹二人と娘二人、息子一人も、生きているかどうか分からない。人の命は朝露のようなものだ、なぜ自分をそこまで苦しめるのか、と李陵は言った。
蘇武は答えた。私たち父子には何の功もないのに、陛下に取り立てていただいた。臣が君に仕えるのは、子が父に仕えるのと同じだ。子が父のために死ぬのに、何の恨みがあろう、と。李陵は数日とどまって酒を酌み交わし、ああ義士だ、私と衛律の罪は天に届くほど重い、と言って泣いた。李陵はその後、妻を通じて蘇武に牛や羊を贈った。
紀元前87年、武帝が死んだ。知らせを聞いた蘇武は南の方を向いて号泣し、血を吐き、朝夕、数か月にわたって喪に服したという。
次の昭帝の代になって、漢と匈奴は再び和睦した。漢が蘇武らの帰還を求めると、匈奴は蘇武はもう死んだと答えた。ひそかに漢の使者に会った常恵は、こう言えと教えた。天子が上林苑で雁を射たところ、その足に絹の手紙が結ばれていて、蘇武らはある沢にいると書いてあった、と。単于は驚いて非を認め、蘇武を返した(蘇武の帰還)。いわゆる「雁信」「雁書」の由来で、手紙を雁の便りと呼ぶのはここから来ている。別れの宴で李陵は立ち上がって舞い、もう二度と会えないと歌って涙を流した。
紀元前81年の春、蘇武は長安に帰った。共に出発した100人余りのうち、戻ったのは9人だけだった。『漢書』は、強壮のときに出て、帰ったときには鬚も髪も真っ白になっていた、と書く。匈奴での年月は19年に及んだ。蘇武は武帝の陵に参って節を奉じ、外国との交わりを扱う典属国の官を授かった。
帰国の翌年、上官桀らが霍光を除こうとした謀反が発覚し(霍光)、加わっていた蘇武の息子の蘇元は処刑された。蘇武も官を解かれた。それでも宣帝が即位すると、その擁立に加わった功で関内侯の位を受け、老臣として敬われた。匈奴で現地の女性との間にもうけた子の通国は、宣帝が金や絹で買い戻し、郎に取り立てた。紀元前60年、80歳余りで死んだ。
紀元前51年、宣帝は宮中の麒麟閣に功臣11人の肖像を描かせた。最後に名を連ねたのが典属国蘇武だった。将軍でも宰相でもない一人の使者が、節を守り通したことで功臣に並べられたのである。
『文選』には、李陵と蘇武が別れに際して贈り合ったとされる詩が収められているが(『文選』)、後の時代の人の作と考えられている。北の果てで羊を追う蘇武の姿は「蘇武牧羊」として絵や歌に繰り返し描かれ、20世紀初めの中国では、外に屈しない節義の象徴として、愛国の歌に歌われ、京劇の演目にもなった。