魏徴
概要
道士だった。李密、竇建徳、李建成に仕え、玄武門で建成が殺されると太宗に「なぜ兄弟を離間させた」と問われ、「太子が私の言うことを聞いていれば、今日はなかった」と答えた。用いられた。200回諫めた。死んで太宗が「私は鏡を失った」。碑を自分で書き、後に怒って倒し、また建てた。
所属
唐関わったできごと(1)
貞観の治AD627年 · 諫めた本文
魏徴は580年、隋が中国の再統一を目前にしていたころに生まれた(隋の中国再統一)。字は玄成。出身地は河北の鉅鹿とも館陶ともいわれる。幼くして父を失い、家は貧しかった。それでも書物をよく読み、天下に志を抱いていたと史書は書く。隋の末に世が乱れると、彼は道士の姿をして身を隠した。

やがて魏徴は、隋に背いて立った群雄の一人、李密のもとに加わった。天下を取るための十の策を献じたが、用いられなかったと伝えられる。618年、李密が敗れて唐に降ると、魏徴もそれに従って唐に入った(唐の成立)。彼は自ら申し出て、李密の旧臣で黎陽を守っていた徐世勣(のちの李勣)に手紙を書き、唐に帰順させた。だがその後、河北の竇建徳に捕らえられ、そのもとで書記の役を務めることになる。621年に竇建徳が滅びると唐に戻り、皇太子李建成に仕えて、太子洗馬の職に就いた。
李建成の弟、秦王李世民は、唐の建国の戦いで抜きん出た手柄を立て、兄の地位をおびやかしていた。魏徴は李建成に、早く手を打って秦王を除くよう勧めていたとされる。626年、先に動いたのは李世民の側だった。宮城の北の玄武門で、李世民は兄の李建成と弟の李元吉を討った(玄武門の変)。

事件のあと、李世民は魏徴を呼び出し、なぜわが兄弟の仲を裂こうとしたのか、と問いただした。周りの者は彼の身を案じた。魏徴は臆することなく、皇太子が私の言うことを聞いていれば、今日の禍は無かったでしょう、と答えた。李世民はその率直さを買い、罪に問わず、自分の側に置いた。まもなく即位した李世民、すなわち唐の太宗は、魏徴を諫議大夫に取り立てた。君主の過ちを言葉で正すことを務めとする役である。
ここから、中国の歴史でも名高い君臣の組み合わせが始まった。太宗に、君主が明るいとか暗いとかいうのは何によるのか、と問われ、魏徴は、多くの者の言うことを聞けば明るく、一人の言うことだけを信じれば暗くなる、と答えた。彼は生涯に200余りの事柄について諫めたとされ、宮殿の造営、狩り、遠方への出兵、贅沢な暮らしと、太宗の振る舞いを次々にとがめた。637年に奉った上奏文(「十思疏」と呼ばれる)では、民を水に、君主を舟にたとえ、水は舟を浮かべもするが覆しもする、という古い言葉を引いて、安らかなときにこそ危うさを思え、と説いた。

太宗も、いつも機嫌よく聞いていたわけではない。ある日、朝廷から戻った太宗が、あの田舎者をいつか殺してやる、と怒りをあらわにした。長孫皇后はそれを聞くと礼装に着替えて現れ、君主が明るければ臣下はまっすぐにものを言うと聞きます、魏徴がまっすぐなのは陛下が明るいからです、と祝いを述べて、太宗の怒りを解いたという話が『資治通鑑』に見える。また、太宗が手に入れた見事な鷂を腕に載せて遊んでいたところへ魏徴が来たので、慌てて懐に隠したが、魏徴がわざと長々と用件を述べたため、鷂は懐の中で死んでしまった、という逸話も伝えられている。
魏徴自身は、太宗に、自分を忠臣ではなく良臣にしてほしい、と願ったことがある。良臣は自分も名を得て君主にも名君の名をもたらすが、忠臣は殺され、君主は暴君の汚名を負う、というのがその理由だった。命がけの諫言で死ぬ臣下を英雄とし、その君主を悪とする話は昔から多い。魏徴は、そういう物語にならないように仕えることを目指したのである。
魏徴は学問の仕事でも重い役を負った。隋の歴史である『隋書』の編纂を監督し、序や論を自ら書いた。歴代の書物から政治に役立つ言葉を抜き出した『群書治要』の編集にもかかわった。詩人としては、唐に仕えて間もないころの心境を詠んだ「述懐」が知られ、のちに『唐詩選』の巻頭に置かれた。その結びに近い「人生意気に感ず」の句は、日本でもよく口にされる。こうした君臣のやりとりは、8世紀に呉兢がまとめた『貞観政要』に多く収められ、魏徴はその中で最もよく登場する臣下の一人となった(貞観の治)。のちに日本でも、為政者の読む書物として長く重んじられた。

643年の正月、魏徴は病で世を去った。64歳だった(数え年)。太宗は自ら碑文を書いて墓に立て、こう言ったと伝えられる。銅を鏡とすれば衣冠を正すことができ、昔を鏡とすれば国の興亡を知ることができ、人を鏡とすれば自分の得失を明らかにできる。魏徴が死んで、私は鏡を一つ失った。同じ年、功臣たちの肖像を描かせた凌煙閣の24人の中にも、魏徴は加えられた。太宗はまた、娘の衡山公主を魏徴の子に嫁がせる約束をしていた。
ところが、死後まもなく事情が変わる。同じ643年、皇太子の李承乾が謀反の疑いで廃され、それに加わった将軍の侯君集や、魏徴がかつて推薦していた杜正倫が罪に問われた。さらに、魏徴が自分の諫言の記録を史官に見せていたことも太宗の耳に入った。太宗は、魏徴が徒党を組み、自分の名を後世に残そうとしたのではないかと疑い、怒って碑を倒させ、婚約も取り消した。
2年後の645年、太宗は自ら大軍を率いて高句麗を攻めたが、多くの犠牲を出して引き揚げた。太宗は、魏徴が生きていたら、私にこの遠征をさせなかっただろう、と嘆き、倒した碑を建て直させ、魏徴の家族をねぎらったという。
魏徴の諫言が後世に伝わったのは、彼が言ったからだけではない。聞いて受け入れ、それを記録に残させた太宗がいたからでもある。中国で諫める臣下の手本といえば、まず魏徴の名が挙がる。そしてその名は、怒りながらも諫めを聞いた君主の名と、いつも一組で語られてきた。