開元の治

概要
玄宗の最初の30年。姚崇と宋璟を宰相にし、戸籍を整え、辺境に節度使を置き、詩人が集まった。人口は5000万を超え、長安は世界最大の都だった。その節度使が、あとで国を壊す。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
玄宗AD685年–AD762年 · 皇帝本文
7世紀の末、唐では、高宗の皇后だった武則天が自ら皇帝になり、国号を周と改めた。705年に彼女が退くと唐の国号は戻ったが、宮廷では皇后や皇女たちの争いが続いた。710年、中宗が急死した。皇后の韋氏とその娘が毒を盛ったと伝えられる。韋后は、武則天にならって自ら権力を握ろうとした。
これを阻んだのが、中宗の甥の李隆基である。叔母の太平公主と手を組み、兵を率いて宮中に入り、韋后とその一派を殺した。父の睿宗が皇帝に立てられ、李隆基は皇太子になった。712年、睿宗は位を譲り、李隆基が即位した。玄宗である。翌713年、玄宗は、政治に口を出し続けていた太平公主の一派を倒し、ようやく自分の手で国を治められるようになった。その年の暮れ、年号が開元と改められた。

玄宗は、すぐれた人物を宰相に据えた。最初の宰相姚崇は、就任にあたって、仁による政治、辺境で手柄を求めないこと、宦官や皇帝の親族を政治に関わらせないことなど、十の条件を出し、玄宗がそれをすべて受け入れたと伝えられる。この話は後の記録にしか見えず、どこまで事実かは疑う説もある。姚崇の後を継いだ宋璟は、法を厳格に守る人で、二人は唐の名宰相の代表とされる。その後も、文人の張説、詩人でもあった張九齢らが宰相として政治を支えた。
政治の中身も改められた。武則天の時代から増えすぎていた役人を減らし、ぜいたくを戒めた。戸籍から逃れていた農民を調べ上げ、80万戸を戸籍に戻した。税を取る相手が増え、国の財政は豊かになった。穀物の値段は下がり、旅人は武器を持たずに遠くまで行けた、と後の史書は書く。

杜甫は、のちに戦乱の中で、この時代を思い出して詩に書いた。昔を思えば、開元の全盛の日、小さな町にもなお一万の家があった。米はつややかに、粟は白く、国の倉も民の倉もみな満ちていた(杜甫)。唐の人口は、天宝年間の754年の統計で5000万人を超え、唐の時代で最も多くなった。
都の長安は、人口100万ともいわれる、当時の世界で最も大きな都市の一つだった。碁盤の目に区切られた町の西の市には、ソグド人(ソグド商人のネットワーク)やペルシア人の商人が店を構え、異国の品と音楽と酒があふれた。キリスト教の東方の一派である景教、ゾロアスター教、マニ教の寺院も建てられていた。717年には、日本から遣唐使が到着した。その中には、のちに唐の役人として生涯を終える阿倍仲麻呂と、帰国して日本の政治と学問に大きな足跡を残す吉備真備がいた。

詩の世界でも、開元は黄金の時代の始まりだった。王維、孟浩然、王昌齢らが、この時代に詩名を上げた。李白が長安に招かれ、杜甫が都で官職を求めて苦闘するのは、もう少しあとの天宝の時代になる。玄宗自身も音楽を愛し、宮中の梨の園で、自ら楽人や歌い手を教えたという。いまも日本で歌舞伎の世界を「梨園」と呼ぶのは、ここからきている。
だが、栄えの陰で、国の仕組みは大きく変わりつつあった。唐の初めの軍は、土地を与えられた農民が交代で兵役につく府兵制で支えられていた。農民が土地を失い、逃げ出すようになると、この仕組みは崩れていった。国は、お金で兵を雇うようになった。辺境の守りのために、広い地域の軍を一手に率いる節度使が置かれ、開元から天宝のはじめにかけて、その数は10に増えた。節度使は、やがて兵だけでなく、その地域の財政や民政まで握るようになる。

741年、開元の年号は29年で終わり、翌年、天宝と改められた。60歳に近づいた玄宗は、しだいに政治への熱を失い、宰相の李林甫に政治を任せきりにした。745年には、楊貴妃を貴妃に立て、その一族を重く用いた。そして、北東の辺境で三つの節度使を兼ね、20万近い兵を率いるまでになったのが、ソグド系の武将、安禄山である。755年、安禄山は兵を挙げ、長安を攻め落とす(安史の乱)。
開元の繁栄を支えた仕組みが、そのまま唐を壊す力になった。玄宗と楊貴妃の物語は、のちに白居易が「長恨歌」に歌い(白居易「長恨歌」)、栄華と転落の物語として、日本でも長く読まれ続けた。