紹興の和議と岳飛の死
概要
南宋が金に臣を称し、淮河を境にし、銀と絹を毎年送る和議を結んだ。北伐を主張した将軍の岳飛は獄で殺された。罪名を問われた宰相秦檜は「あるかもしれない」と答えたと伝わる。
場所
30.25°N 120.17°E · 中国・浙江省
関わった人(2)
岳飛AD1103年–AD1142年 · 殺された将軍秦檜AD1090年–AD1155年 · 宰相本文
1127年の靖康の変で、金の軍は開封を落とし、上皇の徽宗と皇帝の欽宗を北へ連れ去った。難を逃れた徽宗の九男が江南で即位し、宋を続けた。これが南宋の高宗である。高宗は金の追撃を受けて海の上まで逃げたこともあり、都を臨安(いまの杭州)に定めたあとも、戦うより和を結ぶ道を探っていた。北の兄が帰ってくれば、自分の帝位が揺らぐという事情もあったと、のちの史家は指摘している。
この時期に頭角を現したのが岳飛である。河南の農家に生まれ、義勇兵から身を起こし、規律の厳しい「岳家軍」を率いた。民家を壊して暖をとるより凍えて死ね、という軍律が伝わる。1140年、金の実力者の兀朮(ウジュ)が和約を破って南下すると、岳飛は郾城で金の騎兵を破り、開封の手前の朱仙鎮まで進んだ。「黄龍府まで攻め込んで、諸君と痛飲しよう」と言った、と伝えられる。黄龍府は金の故地にあり、そこまで行くとは金を滅ぼすという意味だった。

だが朝廷は撤退を命じた。一日に12通の金牌(最も急ぐ召還の命令)が届いたといい、岳飛は「十年の功が一日で廃れた」と嘆いて兵を返したとされる。数や言葉は後世の伝記によるもので、誇張を含むかもしれない。ただ、勝っている軍を朝廷が呼び戻したことは確かである。朝廷を動かしていたのは、宰相の秦檜だった。秦檜は靖康の変で金に連れ去られ、のちに南へ戻ってきた人で、帰国の事情をめぐっては当時から金の内通者だという疑いがあった。
実は和議はこれが初めてではなかった。1138年、秦檜の主導で、宋が臣を称する代わりに金が河南の地を返すという和議がいったん結ばれている。ところが金の朝廷で政変が起き、和議を進めた者たちが殺されると、兀朮らは1140年に約束を破って河南を取り返しに来た。岳飛の北伐は、この破約に応じた戦いだった。勝ち戦の最中に兵を引かせたのは、金の側に和議へ戻る余地を残すためでもあった。

1141年、高宗と秦檜は、韓世忠や岳飛ら将軍たちから兵権を取り上げ、金との交渉をまとめた。宋は金に対して臣を称し、宋の皇帝は金の皇帝から冊封を受ける。国境は東の淮河から西の大散関までとし、毎年銀25万両と絹25万匹を金に送る。その代わり金は、高宗の生母の韋氏と、北で死んだ徽宗の棺を返した。澶淵の盟で遼に送った歳幣と比べても、名目の上ではるかに屈辱的な和議だった。
和議の妨げになるとみなされた岳飛は、謀反の疑いをかけられて獄に入れられた。証拠はなかった。韓世忠が秦檜に、どんな罪なのかと詰め寄ると、秦檜は「莫須有」と答えたという。「あるかもしれない」とも「なくてはならない」とも読める三字で、無実の者を罪に落とすことを指す成語になった。岳飛は1142年のはじめ、旧暦では1141年の暮れに獄中で殺された。数えで39歳。息子の岳雲と部将の張憲も斬られた。

和議によって、南宋は江南の豊かな経済を背に、以後百年余り金と並び立った。戦いが止んだことで、商業と都市が栄えたのは事実であり、和議を現実的な選択だったと評価する見方もある。一方で、1162年に高宗が退位して孝宗が即位すると、孝宗はすぐに岳飛の名誉を回復した。死から20年後のことである。
秦檜はその前、1155年に死ぬまで宰相の座にあり、十数年にわたって朝廷を思いのままにした。批判する者を流し、自分の一族を高い位につけた。死後しばらくは顕彰されたが、やがて評価は逆転し、1206年には王の爵位を奪われ、諡を「謬醜」と改められた。

杭州の西湖のほとりには岳飛の墓と廟(岳王廟)がある。墓の前には、秦檜とその妻の王氏ら、岳飛の死に関わったとされる者たちの鉄の像が、後ろ手に縛られて跪いている。参拝者が像に唾を吐きかけるのは長く続いた習わしで、いまは禁じる札が立っている。岳飛は救国の英雄として、秦檜は売国の代名詞として、八百年以上語り継がれてきた。その語られ方の多くは、明代以降の小説と芝居によって形づくられたものでもある。