斉の桓公の覇
概要
周王が弱ったあと、諸侯を会盟に集めて秩序を保つ「覇者」が現れた。最初が斉の桓公で、管仲が塩と鉄の専売で財政を支えた。
場所
36.83°N 118.30°E · 中国・山東省淄博市(斉の都)
関わった人(1)
管仲?–BC645年 · 宰相本文
紀元前770年、周の王は、西方の異民族に攻められて都を東の洛邑へ移した(周の東遷)。それからの周王は、名目の上では天下の主でも、直接治める土地は小さく、諸侯を従わせる力が無かった。諸侯は勝手に戦い、互いに土地を奪い合う。北と西からは遊牧の民が、南からは周の秩序の外にいた楚が、中原の国々を脅かした。春秋の争覇と鉄製農具と呼ばれる時代になる。
そこに、王に代わって諸侯をまとめ、秩序を保つ者が現れた。覇者と呼ばれる。最初の覇者が、東の大国、斉の桓公になる。斉は、周の建国の功臣太公望が封じられた国で(太公望の斉)、海に面し、魚と塩に恵まれていた。

桓公の即位には、有名な話がある。先代の君主が殺されたあと、国外に逃れていた二人の公子、小白と糾が、君主の座を争って都へ急いだ。糾の側にいた管仲は、途中で小白を待ち伏せして矢を射た。矢は帯の留め金に当たり、小白は死んだふりをして相手を油断させ、先に都に入って君主になった。これが桓公である。
桓公は、自分を射た管仲を殺そうとした。止めたのは、桓公の側近で管仲の幼なじみの鮑叔だった。斉を治めるだけなら自分で足りるが、天下の覇者になりたいなら管仲が要る、と説いた。桓公はその言葉に従い、管仲を宰相に迎えた。若い頃、二人で商売をして管仲が多く取っても、鮑叔は管仲が貧しいからだと責めなかったという。二人の友情は「管鮑の交わり」として語り継がれている。

管仲が手がけたとされる改革は、国の仕組みそのものに及んだ。民を士・農・工・商に分けて住む場所を定め、それぞれの仕事を代々受け継がせる。村の行政の単位を、そのまま軍の単位にする。平時に同じ村で暮らす者が、戦では同じ隊で戦うので、互いの顔を知り、夜の戦いでも声で味方が分かる。海の塩と山の鉄を国が管理し、その利益で財政を支える。商人を保護し、物の値段を国が調整する。ただ、これらの多くは、のちに編まれた『管子』という書物に記されたもので、どこまでが管仲自身の手になるのかは分からない。
斉は豊かになり、強くなった。桓公はその力を、周の王を尊び、外敵から中原を守るという名分に使った。後の時代に「尊王攘夷」と呼ばれる考え方の原型になる。北方の山戎に攻められた燕を救い、北方の狄に滅ぼされかけた邢と衛を助けて、城を築き直してやった。南の楚に対しては、諸侯の軍を率いて国境まで迫り、周王への貢ぎ物を怠っていると責めて、盟約を結ばせた。

紀元前679年、甄での会盟で、斉は諸侯の盟主として認められた。『春秋左氏伝』は、斉はここで初めて覇者となった、と書く。紀元前651年の葵丘の会盟では、周王が使者を送り、桓公に祭りの肉を賜った。諸侯はそこで、水の流れをせき止めて隣国を困らせない、穀物の売り渡しを止めない、といった約束を交わしたと伝わる。戦いで攻め滅ぼすのではなく、会盟という場で、序列と約束事を作った。
孔子は、管仲について、管仲がいなければ私たちは髪を結わず、襟を左前にしていただろう、と言ったと『論語』にある。異民族の風俗に呑み込まれていた、という意味で、中原の文化を守った功を認めた言葉になる。一方で、管仲の暮らしの贅沢さや、礼をわきまえない振る舞いを批判してもいる。

紀元前645年に管仲が死に、桓公は管仲が遠ざけるよう言い残した寵臣たちを再び近づけた。2年後に桓公が死ぬと、五人の公子が後継を争い、桓公の遺体は60日以上も葬られずに放置された、と『史記』は書く。斉の覇権はたちまち崩れた。
覇者の座は、やがて晋の文公の晋へ移る。晋と楚が中原の主導権を争い、ほかの国々はその間で揺れた。だが、会盟で秩序を保つ仕組みは次第に力を失い、晋そのものが三つに割れたとき(三家分晋(戦国時代の始まり))、誰も秩序を保てない戦国の時代が始まる。