劉裕
概要
京口の貧しい家。草鞋を売り、博打で借金をした。北府兵の兵卒。孫恩の乱で数十人で数千を破った。桓玄を倒し、南燕、後秦、譙蜀を滅ぼし、長安に入った。60歳で皇帝。2年で死んだ。「寄奴」の名で辛棄疾が「金戈鉄馬、気は万里を吞む」と詠んだ。
関わったできごと(1)
劉裕の宋建国AD420年 · 皇帝本文
劉裕は、東晋の末に兵卒から身を起こし、南朝の宋を開いた人である。字は徳輿、幼名は寄奴。363年、長江の南岸の京口(いまの江蘇省鎮江)に生まれた。家は漢の皇族の末を称したが、実際には没落しきった貧しい家だった。母は彼を産んですぐに死に、父は乳を与えられずに子を捨てようとしたが、親族の女性が引き取って育てた。「寄奴」とは、よそに預けられた子という意味である。

若いころの劉裕は、草鞋を売って暮らし、博打を好んだ。賭けに負けて土地の有力者の刁逵に三万銭の借りを作り、縛り上げられたところを、居合わせた名士の王謐が代わりに払って救ったと伝えられる。当時の東晋は、家柄で官職が決まる貴族の社会だった(九品官人法)。名門の生まれでない者が出世する道は、兵になることくらいしかなかった。劉裕は京口に置かれた北府兵に入った。北府兵は北から逃れてきた流民を集めた軍で、淝水の戦いで前秦の大軍を破ったのもこの軍である。
名を上げたのは、399年に起きた孫恩の乱のときだった。宗教結社を率いた孫恩が東の沿海で蜂起し、北府兵がその鎮圧に向かった。劉裕は数十人で偵察に出て数千の敵に出くわし、仲間がみな討たれるなか、長い刀を振るって一人で敵を追い立てた。迎えに来た将がその姿を見て驚いた、という話が『宋書』に残る。乱の鎮圧で功を重ねた劉裕は、北府兵の中でしだいに頭角を現していった。

402年、長江の中流の荊州を握っていた桓玄が都の建康に攻め入り、翌年には自ら帝位に就いて国号を楚とした。北府兵の大将劉牢之は桓玄に屈したのちに自殺し、北府の将たちは次々に殺された。劉裕はひとまず桓玄に仕えた。桓玄は彼を見て、並の人物ではないと言ったという。404年2月、劉裕は京口で仲間と兵を挙げ、桓玄の一族の桓脩を斬った。率いたのは千数百人にすぎなかったが、建康に迫ると桓玄は西へ逃げ、やがて殺された。劉裕は東晋の安帝を位に戻し、朝廷の実権を握った。
そこから十数年、劉裕は戦い続けた。409年には山東の南燕を攻め、翌年に都の広固を落として、王の慕容超を建康で斬った。その留守を突いて、孫恩の残党を継いだ盧循が十万ともいわれる兵で建康に迫ったが、劉裕は急いで戻って都を守り、翌年には盧循を滅ぼした。412年には、ともに桓玄を倒した盟友で、いまは競争相手になっていた劉毅を討ち、413年には部将に四川の譙縦を滅ぼさせた。こうして長江の流れのほぼすべてが劉裕の手に入った。
416年、関中の後秦で王の姚興が死ぬと、劉裕は北へ大軍を出した。部将の王鎮悪や檀道済が洛陽を取り、417年には王鎮悪が渭水を船でさかのぼって長安に入り、後秦の最後の王姚泓が降った。この途中、劉裕は黄河の岸で北魏の騎兵に襲われ、戦車を弓なりに並べた「却月陣」でこれを退けている。長安の老人たちは、百年ぶりに晋の官軍を見たと涙を流して迎えたという。西晋が滅んで以来、南の王朝が長安を取り戻したのは初めてのことだった。
だが勝利は長く続かなかった。都で留守を預けていた腹心の劉穆之が死ぬと、劉裕は建康へ引き返し、長安には12歳の息子劉義真と諸将を残した。将たちはすぐに互いを疑って殺し合い、418年、北の匈奴系の夏の赫連勃勃が攻め寄せて長安は奪われた。劉義真はかろうじて逃げ延びた。劉裕は再び北へ出ようとしたが、周りに止められて断念した。北伐の成果は、洛陽の周辺を残してほとんど消えた。
劉裕は帝位への道を急いだ。418年の暮れ、安帝を絞め殺させ、弟の恭帝を立てた。「孝武帝のあとにまだ二人の帝がいる」という予言の言葉があったため、一人を挟んだのだという。420年6月、恭帝は位を劉裕に譲った。禅譲の詔を書くよう求められた恭帝は、晋は桓玄のときにすでに天下を失っていたが、劉公のおかげで二十年近く延びた、これは本望だと言って、ためらわず筆を取ったと伝えられる。こうして宋(劉裕の宋建国)が始まり、劉裕は武帝となった。翌421年、劉裕は退位した恭帝を殺させた。毒を飲むよう迫られた恭帝が、仏の教えでは自ら死ねば人に生まれ変われないと言って拒んだため、布団で押さえつけて殺したという。
皇帝としての劉裕は、貴族の名門を重んじながらも、実務には家柄の低い人々を用いた。暮らしは質素で、宮中にきらびやかな飾りを許さなかった。のちに孫の孝武帝が祖父の旧居を壊して宮殿を建てたとき、土で作った寝台や粗末な灯籠が残っていた。臣下が武帝の倹約を称えると、孝武帝は、田舎の爺さんにはこれでも過ぎた物だと言って笑ったという。劉裕は即位から2年足らずの422年5月に死んだ。満で59歳、数えで60歳だった。
劉裕の宋は、子の文帝の時代に「元嘉の治」と呼ばれる安定を迎えるが、やがて一族の殺し合いで乱れ、479年に斉に取って代わられる。宋から斉、梁、陳と続く南朝の時代は、劉裕に始まる。北では北魏の建国が勢いを増し、南北の対立は二百年近く続いた。
劉裕は、兵卒から皇帝になり、南の王朝で最も北まで攻め上った人として記憶された。南宋の詞人辛棄疾は、金に奪われた北の地を思いながら京口の北固亭に登り、寄奴がかつてここに住んだと人は言う、と詠んだ。金の矛と鉄の馬で、虎のように万里を呑んだ当時を思う、と続くこの詞で、劉裕は失地を取り戻す夢の象徴になっている。