人物

文帝(漢)

Emperor Wen of Han
BC203年 – BC157年(享年46・推定)
前漢重要度 4

概要

劉邦の四男。呂后が死んで、功臣が代王を迎えた。肉刑を廃し、田租を減らし、農を勧め、匈奴と和親し、23年、宮殿を建てず、黒い絹の服を着た。遺詔で服喪を3日に減らした。「仁君」の見本。母の薬を自分で嘗めた話が二十四孝。

所属

前漢

関わったできごと(1)

文景の治BC180年 · 文帝

本文

漢の文帝、名は劉恒。紀元前203年、漢を建てた劉邦の子として生まれた。母の薄姫は、もとは魏の王豹の後宮にいた女性で、人相見の許負に、天子を産む相だと言われたと伝えられる。魏が滅びると漢の宮中の機織りの工房に入れられ、劉邦の目に留まったが、寵愛を受けたのはごくわずかで、ほとんど顧みられなかった。そのことが母子の命を救うことになる。

漢の文帝、劉恒
漢の文帝、劉恒Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

紀元前196年、8歳の劉恒は代王に封じられ、母とともに北の辺境の代国へ赴いた。いまの山西省の北部から河北省にかけての地で、北方の遊牧国家匈奴と境を接していた。劉邦が死ぬと、皇后の呂后が実権を握った。呂后は夫の寵愛を受けた女たちとその子を憎み、劉邦の子の趙王を次々に死に追いやった。寵愛を受けなかった薄姫と、その子の劉恒は、目をつけられずにすんだ。呂后から趙王に移るよう打診されたとき、劉恒は辺境の代を守り続けたいと辞退して、危うい地位を避けた。

紀元前180年、呂后が死ぬと、劉邦以来の功臣である周勃と陳平が、呂氏一族を一掃した。次の皇帝に、彼らは代王劉恒を選んだ。母方の一族が無力で、外戚が権力を振るう心配がないことが理由の一つだった。代の宮廷では、罠かもしれないと引き止める声と、行くべきだと説く声が分かれた。劉恒は占いを立て、まず母の弟の薄昭を長安に送って功臣たちの真意を確かめさせてから、都へ向かった。長安の手前の渭水の橋で、周勃が出迎え、二人だけで話したいと申し出た。随行していた宋昌は、公の話なら公の場でなさい、私的な話なら王者は私的な話を受けない、と言って退けた。周勃はひざまずいて皇帝の印を差し出した。その夜、劉恒は即位し、宋昌に都の守備軍を握らせた。23歳だった。

宋代の『卻坐圖』に描かれる文帝
宋代の『卻坐圖』に描かれる文帝Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

文帝は即位の功臣たちを処遇しながら、少しずつ遠ざけた。周勃は丞相となったがまもなく辞め、封地に帰された。そこで謀反の疑いをかけられて獄につながれたとき、周勃は、私はかつて百万の軍を率いたが、獄吏がこれほど偉いとは知らなかった、と嘆いた。母の薄太后が、周勃は皇帝の印を握っていたときに背かなかったのに、今さら小さな領地で背くはずがない、と文帝を叱り、周勃は釈放された。文帝の治世で、功臣が殺されることはなかった。

文帝は臣下の諫めをよく聞いた。廷尉(司法長官)の張釈之は、文帝の車列の馬を驚かせた男を罰金刑にとどめた。文帝が軽すぎると怒ると、張釈之は、法は天子と天下が共に守るものです、天子が気分で重くすれば、民は法を信じなくなります、と答え、文帝は従った。老臣の馮唐は、陛下は名将を得ても使いこなせないと言い放ち、首の数のわずかな数え違いで罰せられた辺境の名将魏尚の復職を認めさせた。若い学者賈誼を重く用いようとしたが、古参の重臣たちに阻まれ、地方に出さざるを得なかった。

病気の母に四六時中付きっきりで看病する漢文帝(奥)
病気の母に四六時中付きっきりで看病する漢文帝(奥)Wikimedia Commons Dingar · Public domain

政治の方針は、民を休ませることだった。秦の苛酷な支配と、その後の戦乱で、国は疲れ切っていた。文帝は田租を軽くし、一時は全く取らなかった。紀元前167年には、罪人の顔に入れ墨をしたり鼻や足を切ったりする肉刑を廃した。父の刑を自分が代わりに受けたいと願う少女の上書がきっかけだったと伝えられる。自らも倹約を重ね、宮殿に露台を造ろうとしたが、費用が中流の家十軒分の財産にあたると聞いて取りやめた。北の匈奴に対しては、侵入があれば防ぎながらも、皇族の娘を送り物を贈る和親の関係を保ち、大規模な戦争は避けた。

母の薄太后が3年にわたって病に伏したとき、文帝は夜も眠らず、衣の帯も解かずに看病し、煎じ薬は必ず自分でなめてから母に飲ませた、と伝えられる。この話は後に親孝行の手本を集めた「二十四孝」に採られた。

上林苑で臣下袁盎の諫言を聞く文帝(宋代の絵画)
上林苑で臣下袁盎の諫言を聞く文帝(宋代の絵画)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

紀元前157年、文帝は死んだ。在位23年、40代半ばだった。遺詔で、自分の葬儀のために民を煩わせることを禁じ、天下の官民は3日で喪服を脱ぎ、婚礼や祭りや酒宴も禁じてはならないと命じた。陵墓も、山の地形をそのまま使い、金銀を飾らず、土器だけを納めよと遺言した。2021年、西安の郊外で発掘されていた江村大墓が、文帝の霸陵だと確認された。長く別の場所が霸陵だと信じられてきたが、遺言どおり山を盛り上げない造りだったため、見誤られていたのである。

文帝と子の景帝の時代は「文景の治」と呼ばれ、中国史で最もよく治まった時代の一つに数えられる。文帝が遠ざけた諸侯王の問題は、景帝の代に呉楚七国の乱となって噴き出し、文帝が蓄えた国力は、孫の漢の武帝の外征によって使い尽くされていく。

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