できごと

鄭玄の経学

Zheng Xuan's commentaries
AD180年頃
年に諸説あり重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢サカ族の王国ヒンドゥーの諸王国サータヴァーハナ朝弥生カリンガ高句麗南匈奴アイヌ新羅AD180年頃高密
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD180年頃の版図を描いています(13勢力)。

概要

古文と今文の争いを、一人で両方に注をつけて終わらせた。『毛詩』『三礼』『論語』。党錮で14年閉門して書いた。袁紹に招かれ、曹操に招かれ、途中で死んだ。以後、経書を読むとは鄭玄の注で読むことになった。

場所

高密
36.38°N 119.76°E · 中国・山東省

関わった人(1)

鄭玄AD127年–AD200年 · 経学者

本文

漢の武帝の時代に儒学が国の学問とされてから(儒学の官学化)、経書をどう読むかは、学問の問題であると同時に、政治の問題でもあった。経書の解釈が国の儀礼と制度を決め、それに通じた者が官僚に取り立てられる。ところが、その経書そのものが二つの系統に割れていた。秦の焚書のあと、生き残った学者の暗誦をもとに漢の時代の文字で書き取られた「今文」の経書と、のちに古い壁の中などから見つかったとされる、古い文字で書かれた「古文」の経書である。文字も章の数も解釈も違い、どちらを正統とするかをめぐって、学者たちは200年以上にわたって争い続けていた。

鄭玄は、127年、北海郡高密県、いまの山東省の東部に生まれた。祖父の代からの農家で、若い頃は村の徴税や訴えを扱う下役人を務めたが、その仕事を嫌い、休みのたびに学校へ通っていた。父はそれを怒ったが、彼は学問の道を選んだ。都の太学に入り、第五元先という学者のもとで、今文の『易』や『公羊春秋』、さらに暦法と算術の書を学んだ。続いて張恭祖のもとで、古文の『周官(周礼)』『左氏春秋』『古文尚書』などを修めた。今文と古文の両方を、若いうちに身につけたのである。

鄭玄の肖像
鄭玄の肖像Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

さらに彼は西の扶風へ向かい、古文の学の大家、馬融の門を叩いた。馬融は貴族の出で気位が高く、弟子は400人を超えたが、直接堂に上げて教えるのは50人ほどで、ほかの者は上級の弟子から習った。鄭玄は3年のあいだ、師の顔を見ることさえできなかった。あるとき馬融が弟子たちを集めて予言の書の計算を論じていて行き詰まったとき、鄭玄が算術に長けていると聞いて呼び寄せた。鄭玄はたちまち問題を解き、ついでに日頃の疑問をすべて尋ねて故郷へ帰った。馬融は、鄭君が去った、私の学問は東へ行ってしまった、と嘆いたと『後漢書』は伝える。

40歳を過ぎて郷里に戻った鄭玄は、家が貧しく、東萊で人の土地を借りて耕しながら弟子を教えた。慕って集まる弟子は数百人から千人にのぼった。だが、時代は荒れていた。宦官が朝廷の実権を握り、それに反対する官僚や学者は「党人」として弾圧された(党錮の禁)。鄭玄も党人の一味とされ、同郷の40人あまりとともに、官に就くことを禁じられた。

孔安国注・鄭玄注による『論語』写本の断片(莫高窟出土、890年)
孔安国注・鄭玄注による『論語』写本の断片(莫高窟出土、890年)Wikimedia Commons anonymous · Public domain

禁錮は14年に及んだ。鄭玄は門を閉ざして外に出ず、経書の注釈に打ち込んだ。この時期、公羊学の大家、何休は、『左氏春秋』や『穀梁伝』の欠陥を論じる書を著して今文の立場を強く打ち出していた。鄭玄はそれぞれに反論の書を書いた。何休はそれを読み、鄭玄は私の部屋に入り込み、私の矛を取って私を攻めるのか、と嘆いたという。相手の学問を内側から知り尽くしているからこそできる批判だった。

鄭玄の注釈の特色は、今文と古文のどちらか一方に立つのではなく、両方を突き合わせ、よいところを取って一つの体系にまとめたことにある。古文の本文を基本にしながら、今文の読みで補い、ときには自分の判断で改めた。『詩経』には毛氏の伝に補足を加える形で「箋」を書き、礼について記した三つの書、『周礼』『儀礼』『礼記』にすべて注を付けた。これは「三礼注」と呼ばれ、後世の礼学の土台になった。ほかに『易』『尚書』『論語』『孝経』などにも注を書いた。注の文はしばしば簡潔で、文字の意味と古い制度を一つ一つ明らかにしていく。その仕事によって、今文と古文の長い争いは、事実上鄭玄の学の中に吸収されて終わった。人々はそれを「鄭学」と呼んだ。

鄭玄注『詩経』の日本の漢文訓読版(1185年以前)
鄭玄注『詩経』の日本の漢文訓読版(1185年以前)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

184年、黄巾の乱が起きると、朝廷は党人の禁を解いた。都の実力者たちが次々に鄭玄を招いたが、彼は応じても一晩だけ留まって帰ってしまったり、病を理由に断ったりした。北海国の長官になった孔融は鄭玄を深く敬い、彼の住む郷を「鄭公郷」と名づけ、村の門を広げて「通徳門」と呼ばせた。黄巾の軍勢が高密を通ったとき、鄭玄を見ると皆が拝み、県の境に入らないと約束し合った、と『後漢書』は伝えている。真偽はともかく、彼の名声がどれほどだったかを示す話である。

乱世は彼を放っておかなかった。一人息子の鄭益恩は、黄巾の残党に囲まれた孔融を救いに出て戦死した。鄭玄は、息子の死後に生まれた孫に、自分の手相に似ていることから「小同」と名づけたという。200年、河北の袁紹は官渡の戦いで曹操と対決するにあたり、高名な鄭玄を軍に同行させようとした。病んでいた鄭玄は車で運ばれ、途中の元城県で、その年の6月に亡くなった。74歳だった。遺言で質素に葬るよう命じたという。晩年、息子に書き送った手紙には、役人の仕事を嫌って学問に身を投じ、40を過ぎて郷里に戻って教え、ただ古い聖人の言葉を整えようとしてきた、という生涯が淡々と綴られている。

鄭玄の死後、魏の王粛が鄭玄の説に真っ向から反対した。王粛の娘は司馬昭の妻であり、司馬氏が建てた晋の朝廷では王粛の学が重んじられた。王粛が自説の根拠に使った『孔子家語』は、彼自身が手を加えたものだと疑う学者も多い。だが長い目で見れば、勝ったのは鄭玄だった。唐の時代、国が定めた経書の標準の解釈である『五経正義』は、『詩経』と『礼記』について鄭玄の注を底本にした。1969年には、中国西域のトルファンの墓から、唐の時代の12歳の少年が書き写した鄭玄注の『論語』が見つかっている。遠い辺境の子どもも、鄭玄の注で経書を学んでいたのである。

宋の時代になると、朱熹(朱子)が経書の文字の奥にある哲学的な意味を重んじる新しい解釈を打ち立て(朱子学の成立)、鄭玄の注は脇に置かれた。だが清の時代、文字と制度を実証的に調べる考証学が盛んになると、学者たちは再び鄭玄に立ち返り、その学を「漢学」と呼んで尊んだ。文字を読む鄭玄と、意味を読む朱熹。二つの読み方は、その後も交互に経学の主役を務めた。

役人の仕事を嫌って学問に生きた農家の子が、生涯官に就かずに書いた注釈を、のちの千年以上にわたって、役人を目指す者たちが読み続けることになった。経書を読むとは、鄭玄の注で読むことだった時代が長く続いたのである。

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