霍光
概要
霍去病の異母弟。武帝の遺詔で幼帝を支え、20年政治を握った。昌邑王を27日で廃して宣帝を立てた。死後に一族が謀反で滅ぼされる。以後、皇帝を廃した臣下の代名詞になった。
所属
前漢関わったできごと(1)
霍光の昌邑王廃位BC74年 · 大将軍本文
霍光は、匈奴との戦いで名を上げた霍去病の異母弟である。兄の去病は、平陽侯の家に仕えていた小役人霍仲孺と、衛青の姉にあたる侍女衛少児とのあいだに生まれた。仲孺は勤めを終えると故郷の河東平陽に帰り、別の妻を迎えて光をもうけた。やがて衛氏の一族が武帝の皇后を出して栄えると、去病は将軍となり、遠征の途中で河東を通ったとき初めて父に会った。そのとき十余歳の異母弟を長安へ連れて行った。これが霍光の出発点である。

兄は24歳で早世したが、霍光は郎官として漢の武帝の側に仕え、奉車都尉、光禄大夫と進んだ。宮中に出入りすること20年余り、一度も過ちがなかったと『漢書』は書く。宮殿の門を出入りするとき、立ち止まる場所がいつも同じで、ひそかに見張っていた役人が測っても寸分違わなかったという逸話も伝わる。慎重で寡黙な人だった。
紀元前87年、武帝は死の床で、8歳の末子を後継ぎに立て、霍光を大司馬大将軍として補佐を託した。武帝はそれに先立ち、周公が幼い成王を背負って諸侯の朝見を受ける絵を描かせて霍光に与えていた(周公旦の摂政)。周公のように幼い王を支えよ、という意味である。補佐には匈奴の王子出身の金日磾、上官桀、財政を担った御史大夫桑弘羊も加えられた。昭帝の時代である。
昭帝のもとで霍光は、武帝の長い戦争で疲れた国を休ませる方向に舵を切った。紀元前81年の塩鉄会議では、全国から集めた儒者たちに、桑弘羊の塩と鉄の専売政策を批判させている。その翌年、上官桀と桑弘羊は、昭帝の兄の燕王劉旦と組んで、霍光が勝手に兵を動かしていると訴える偽の上書を出した。14歳の昭帝はこれを見抜いた。大将軍が兵を集めたのはつい最近のことで、遠い燕の王が知るはずがない、と。陰謀は露見し、上官桀と桑弘羊は一族ごと殺され、燕王は自殺した。上官桀の孫娘で霍光の外孫にあたる幼い皇后だけは、まだ子供だったので罪を問われなかった。以後、朝廷に霍光と並ぶ者はいなくなった。
紀元前74年、昭帝が21歳で子のないまま死んだ。霍光は武帝の孫の昌邑王劉賀を迎えたが、わずか27日で廃した。在位中に1127件の不行跡があったとされる(霍光の昌邑王廃位)。代わりに立てたのは、武帝の曾孫で、巫蠱の事件で一族を失い、獄中で育って民間に暮らしていた劉病已だった。宣帝である。宣帝は即位後、宗廟に参るとき霍光と同じ車に乗ったが、その間ずっと背中に棘が刺さっているように落ち着かなかったという。「芒刺背に在り」の語はここから出た。
霍光の権勢の陰で、一族は増長した。紀元前71年、霍光の妻霍顕は、娘の成君を皇后にするため、出産直後の許皇后を女医に命じて毒殺させた。霍光は事が済んでからそれを知り、驚いたが、妻を告発することはせず、娘は翌年皇后になった。
紀元前68年、霍光は死んだ。宣帝は皇帝に準じる礼で葬った。だが宣帝はすぐに霍氏から兵権を取り上げにかかり、許皇后の毒殺の噂も広まった。追い詰められた霍氏は紀元前66年に謀反を企てて露見し、息子の霍禹は腰斬、一族はことごとく殺され、連座した家は数千に及んだ。霍皇后は廃された。
それでも宣帝は霍光の功を消さなかった。紀元前51年、功臣11人の肖像を麒麟閣に描かせたとき、筆頭に霍光を置き、ほかの者が名で記されたのに対し、霍光だけは名を書かず、官職と姓だけを記して敬意を示したという。班固は『漢書』で、霍光を周公に比べてその忠誠を認めながら、学問がなく大きな道理に暗かったために妻の悪事を許し、一族を滅ぼしたと評した。
殷の伊尹とともに「伊霍」と並び称され、霍光は君主を廃して国を守った臣の代名詞になった。のちに皇帝を廃立しようとする者は、しばしば霍光の故事を持ち出した。周公は成王が長じると政権を返したが、霍光は死ぬまでそれを手放さなかった。漢の後半、外戚の王莽が同じく幼帝の後見から帝位そのものに手を伸ばしたとき、人々は霍光と周公の違いを思い出すことになる。