牧野の戦い(殷周革命)
概要
周が殷を破り、天命は徳ある者に移るという理屈が生まれた。以後の王朝交代はこの型で語られる。
場所
35.30°N 113.93°E · 中国・河南省新郷付近
本文
黄河の中流域を治めた殷(商)は、甲骨に刻んだ占いの文字(甲骨文字)で知られる王朝である。王は戦い、狩り、天候、病のたびに祖先や神々の意思を占い、多くの人を生贄に捧げた。その西の渭水の流域で力を蓄えたのが周だった。周はもともと殷に従う一つの勢力にすぎなかったが、文王の代に周りの諸勢力を従えて力を伸ばした。
文王の子の武王は、父の死後、殷を討つ兵を起こした。武王を助けたのは、太公望の名で知られる軍師の呂尚と、弟の周公旦(周公旦)らだった。

呂尚は、渭水のほとりで釣りをしていたところを文王に見いだされたという話で知られる。まっすぐな針で釣りをしていたとか、文王の祖父が待ち望んでいた人物だったので「太公望」と呼ばれたとかいう話は、後の時代に膨らんだ伝説である。日本で釣り好きの人を太公望と呼ぶのも、この話から来ている。西方や南方の諸部族も、周の軍に加わった。
殷の王は帝辛、後に紂王と呼ばれる人物である。周の軍は黄河を渡り、殷の都に近い牧野で殷の軍と向き合った。『書経』の「牧誓」は、決戦の朝に武王が兵たちに向けて行ったとされる誓いの言葉を伝えている。殷の王は女の言うことばかり聞き、祖先の祭りをおろそかにし、逃げてきた罪人を重く用いている、と武王は紂王の罪を数え上げた。
司馬遷の『史記』によれば、紂王は70万の兵を出したが、兵たちは戦う気がなく、矛を逆さにして周の軍に道を開いたという。70万という数字は誇張だろうが、殷の軍が内側から崩れたという筋は、周の側の記録に共通している。敗れた紂王は鹿台という高楼に登り、宝玉で飾った衣をまとって火の中で死んだと伝えられる。
この戦いの年は分かっていない。中国の国家事業として行われた年代研究は紀元前1046年としたが、紀元前1122年、紀元前1027年など、ほかにも多くの説がある。だが、戦いの日については、思いがけない裏付けが見つかった。1976年、陝西省で出土した青銅器「利簋」の銘文に、武王が商を討ったこと、それが甲子の日の朝であったこと、そしてその日の夕方には商を手に入れたことが刻まれていたのである。「牧誓」が決戦を甲子の日としていることと一致する。戦いの直後に作られた器が、3000年後に伝承の一部を確かめたことになる。
戦いそのものより、その後に作られた理屈のほうが大きい。殷の王は徳を失った。天はその命(めい)を殷から取り上げ、徳のある周へ移した。だから周が王となるのは正しい、という説明である。これを天命という。周の初期の青銅器にも、殷は酒に溺れて天命を失った、という趣旨の文が刻まれている。
周の人々が殷との違いを強調した背景には、殷の祭祀のあり方もあったとみられる。20世紀に発掘が進んだ殷の都の跡、殷墟からは、王の墓に殉葬された人々や、祭祀のために首を斬られて葬られた多くの人骨が見つかっている。周の時代にも人を殉葬することはあったが、その規模は次第に小さくなっていった。神々と祖先の意思を占いで問う殷から、王の徳を問う周へ、という変化は、後の儒教の考え方の源の一つになる。
周が殷に勝っても、すぐに天下が治まったわけではない。武王は数年のうちに死に、幼い成王に代わって周公旦が政治をとった(周公旦の摂政)。殷の王族と、それを見張るために置かれた武王の兄弟たちが手を組んで反乱を起こし、周公はこれを3年がかりで鎮めた。周は一族や功臣を各地に封じて治めさせ、東方を抑えるために洛邑という新しい都も築いた。周公が定めたとされる礼と制度は、後に孔子が理想として仰ぐことになる。
天命という考えが強力だったのは、王朝の交代を正当化できるだけでなく、今の王を批判する根拠にもなるからだった。徳を失えば天命は去る。後の孟子は、紂王を討ったのは主君を殺したことではなく、仁と義をそこなった一人の男を討ったにすぎない、と論じた。暴君は王ではない、という理屈である。
以後3000年、中国の王朝の交代は、この型で語られる。天命が改まり、王の姓が易わる。易姓革命と呼ばれる。日本語の「革命」という言葉も、もとはここから来ている。
新しく立つ者は、前の王朝がどれだけ暴虐だったかを記録に残すことになる。紂王については、酒の池に肉の林を作って遊んだ、焼けた銅の柱の上を罪人に歩かせた、などの話が伝わっている。だがこれらは後の時代の書物に初めて出てくるもので、どこまで本当かは分からない。早くも『論語』の中で、孔子の弟子の子貢が、紂王の悪はそれほどひどくはなかったのではないか、悪い評判が立つと天下の悪がすべてその人に集まってしまうのだ、と述べている。殷の紂王の悪行の描写も、多くは勝った周の側の筆によるものだった。