霍去病の河西遠征
概要
20歳の将軍が匈奴を河西回廊から追い、漢はのちに四つの郡を置いていく。西域への道がここで開き、敦煌が最初の関になる。
場所
40.14°N 94.66°E · 中国・甘粛省
関わった人(1)
霍去病BC140年–BC117年 · 総指揮本文
漢が建国してから、北の草原の遊牧国家、匈奴は、長く漢を脅かし続けた。初代の皇帝劉邦は、冒頓単于の率いる匈奴に包囲されて危うく逃れ、その後の漢は、皇女や絹、酒や米を毎年匈奴に贈って和を保った(匈奴の統一)。紀元前141年に即位した漢の武帝は、この関係を力で変えようとした。
武帝の匈奴との戦いで、二人の将軍が名を上げた。一人は衛青である。もとは身分の低い家の出だったが、姉の衛子夫が武帝の寵愛を受けて皇后となり、引き立てられた。衛青は紀元前127年、黄河の湾曲部の南、オルドスの地を匈奴から取り戻した(衛青の河南奪回)。もう一人が、衛青の姉の子、つまり甥にあたる霍去病だった。

霍去病は若くして武帝のそばに仕え、騎馬と弓に優れていた。18歳で初めて叔父の衛青の遠征に加わり、800の騎兵を率いて本隊から大きく離れ、匈奴の陣の奥深くに切り込んで、多くの首を取った。武帝は彼を冠軍侯に封じた。兵法を学ぶよう勧められたときには、どう戦うかは方略を考えるだけでよい、昔の兵法を学ぶまでもない、と答えたと伝えられる。
紀元前121年、20歳の霍去病は、驃騎将軍として河西への遠征を任された。河西回廊は、黄河の西、南の祁連山脈と北の砂漠や山地に挟まれた細長い土地で、山の雪解け水がオアシスと草地をうるおしていた。ここは匈奴の休屠王と渾邪王の牧地であり、匈奴と、さらに南のチベット系の羌の人々とを結ぶ位置にあった。

春の遠征で、霍去病は1万の騎兵を率いて焉支山を越え、6日のあいだに匈奴の国々を駆け抜けて、千里あまりを進んだ。匈奴の王たちを討ち、休屠王が天を祀るのに使っていた金の像を奪った。夏には再び出撃し、北の居延の湖を回り込んで祁連山のふもとに至り、さらに大きな戦果を上げた。
匈奴の単于は、河西の二人の王が大敗したことに怒り、呼び出して罰しようとした。恐れた渾邪王は、休屠王を殺して、その民とともに漢に降った。数万の人々である。霍去病は兵を率いて迎えに行き、降伏の場で動揺して逃げようとした者たちを斬って、混乱を抑えた。降った人々は漢の北辺に移された。殺された休屠王の太子は、のちに金日磾という名で武帝に仕え、武帝の死に際して後事を託される重臣の一人にまでなった。

匈奴の人々は、このとき歌を作ったと伝えられる。祁連山を失って、家畜が増えなくなった。焉支山を失って、女たちの顔から色が消えた。焉支山は、紅をとる草の産地だったという。
河西を手に入れた漢は、ここに郡を置いていった。武威、張掖、酒泉、敦煌の四つの郡で、河西四郡と呼ばれる。ただし四つが一度に置かれたのではなく、それぞれの郡が置かれた年には諸説があり、いちばん西の敦煌郡が置かれたのは、霍去病の遠征から10年あまり後とされる。敦煌の西には玉門関と陽関が置かれ、ここが中国から西域へ出る門になった。

河西が漢の手に入ったことで、匈奴は西の羌と切り離された。そして、漢から西域へ通じる道が開けた。武帝はすでに張騫の西域派遣で西の国々のことを知っていた。その後、漢の使者と商人がこの回廊を通って西へ向かい、のちに絹の道と呼ばれる道の東の入口となった。敦煌は、後に仏教の石窟が掘られる町になる(敦煌の石窟の造営)。
紀元前119年、霍去病は衛青とともに大軍を率いてゴビ砂漠を越え、匈奴の本拠を攻めて大勝した。だがその2年後の紀元前117年、24歳で病死した。武帝が彼のために邸宅を建てようとしたとき、匈奴がまだ滅んでいないのに、家など何になりましょう、と断ったという話が『史記』に残る。武帝は自分の陵のそばに彼の墓を作らせ、祁連山をかたどらせたと伝えられる。墓の前には、馬が匈奴の兵を踏みつける石の像が置かれ、いまも残っている。