大理国の成立
概要
南詔のあとの混乱を段思平が収めた。仏教の国で、22代の王のうち9人が退位して出家した。宋は北の遼と金に追われて、ここに手を出さなかった。
場所
25.61°N 100.27°E · 中国・雲南省
関わった人(1)
段思平?–AD944年 · 建国本文
中国の西南、雲南の高原に、洱海という細長い湖がある。西に蒼山の峰々がそびえ、湖と山の間の平地は水に恵まれ、稲がよく実る。ここに8世紀の前半、南詔という王国が興った。南詔は唐と吐蕃という二つの大国の間で、あるときは唐に、あるときは吐蕃についた。751年と754年には攻めてきた唐の大軍を破り、9世紀には四川や現在のベトナム北部にまで兵を出すほどの勢いを持った(南詔と大理)。
だが度重なる遠征は国を疲れさせた。902年、権臣の鄭買嗣が南詔の王族を皆殺しにして位を奪い、大長和国を建てた。その後の35年ほどの間に、大長和、大天興、大義寧という短い王朝が、宮廷の争いの中で次々に入れ替わった。高原の諸部族は分かれ、国は乱れた。

段思平は、南詔の時代から仕えてきた武人の家の出で、大義寧のもとで、洱海の東南にある通海の地を治める節度使を務めていた。王の楊干貞に疑われて命を狙われると、段思平は東の方の山地に逃れ、そこに住む諸部族、いわゆる「東方三十七部」と同盟を結んだ。937年、段思平は諸部族の兵を率いて西へ進み、楊干貞を破って都を取った。国号を大理とした。都は南詔の時代と同じ洱海のほとり、のちの大理の町である。
段思平は即位すると、民の税を軽くし、労役を減らし、味方した諸部族の首長たちに地位と土地を与えたと伝えられる。大理は段氏の王のもとで、さまざまな部族の首長たちが地方を治める、ゆるやかなまとまりの国だった。中心にいたのは、いまの白族の祖先とされる人々である。

大理は仏教の国だった。南詔の時代から、インドやチベット、中国から伝わった密教が広まり、「阿吒力」と呼ばれる僧たちが王家の儀礼を担った。都には南詔の時代に建てられた崇聖寺の三塔がそびえ、王たちは寺を建て、経を写させた。12世紀の後半に大理の画工が描いた長大な仏画の巻物は、いまも台北の故宮博物院に残っている。そして大理の王たちの多くは、位を退くと寺に入って僧になった。22代の王のうち9人が出家したとされる。王位を譲って仏の道に入ることが、徳の高い王のふるまいとされていたらしい。
王家の力は次第に弱まり、大臣の高氏が実権を握るようになった。1094年には高昇泰が一度は段氏から王位を奪ったが、まもなく段氏に返した。これ以後を後理国と呼んで区別することもある。段氏は王であり続けたが、政治は宰相の地位を世襲する高氏が動かした。
北の宋は、大理と深い関わりを持とうとしなかった。宋の太祖趙匡胤が四川を平定したとき、将軍が雲南を攻める地図を差し出すと、太祖は玉の斧で地図の上の大渡河に線を引き、これより外は我がものにあらず、と言ったという話が伝わる(宋の成立)。後の時代の書物に見える話で、そのまま事実とは言えないが、宋が西南に手を伸ばさなかったことはたしかである。宋にとって最大の脅威は北の遼と、のちの金であり、南西の山の向こうまで兵を出す余裕は無かった。また唐が南詔との戦いで国を疲弊させたことも教訓とされた。
それでも行き来はあった。北の草原を失った南宋は、軍馬に事欠いていた。大理の馬は山地に強く、南宋は広西の国境の市場で大理の馬を買い入れた。大理からは馬のほか、刀や毛織物、薬草が運ばれ、宋からは絹や書物、銅銭が流れ込んだ。

300年あまり続いた大理を終わらせたのは、モンゴルだった。13世紀の半ば、モンゴルは南宋を攻めあぐねていた。長江の守りは固い。そこで皇帝モンケは、弟のフビライ・ハンに、西から大きく回り込んで大理を落とし、南宋を背後から包囲するよう命じた。1253年、クビライの軍は四川の西の険しい山地を越え、金沙江を羊の皮の浮き袋で渡って大理に迫った。都は落ち、王の段興智は逃げたが、翌年捕らえられた(モンゴル帝国の拡大)。
クビライは段氏を滅ぼさなかった。段興智はモンゴルに仕えて、雲南の諸部族を平定する手助けをし、段氏は大理総管としてその地を治め続けた。元の時代を通じて、段氏は大理の地を受け継ぎ、1382年に明の軍が雲南を平定するまで続いた。雲南はこのとき以来、中国の王朝の直接の支配のもとに入り、いまの中国の一部となる。

大理は、20世紀に金庸の武侠小説『天龍八部』で、大理国の王子段誉が活躍する舞台となり、中国語圏の人々にとって身近な名前になった。洱海のほとりの古い町並みと三塔は、いまも多くの旅人を集めている。