会昌の廃仏

概要
道教を信じる皇帝が寺4600を壊し、僧尼26万人を還俗させた。教団の富が国庫に入る。中国の仏教は、以後この打撃から完全には戻らない。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
唐の時代、仏教は中国の社会の隅々にまで根を張っていた。玄奘がインドから持ち帰った経典の翻訳をはじめ、学問としての仏教が大きく花開き、都の長安には壮麗な寺院が建ち並んだ。皇帝や貴族は寺に土地や財宝を寄進し、寺は広大な荘園と、そこで働く多くの隷属民を抱えるようになった。
しかし、寺と僧の繁栄は、国にとっては頭痛の種でもあった。出家した僧尼は、税も兵役も労役も免除される。寺の土地も税を納めない。8世紀半ばの安史の乱の後、財政に苦しんだ朝廷は、出家を許す証明書を売って金を集めたため、税や労役を逃れるために出家する者がさらに増えた。寺は金貸しや商売まで手がけ、仏像や鐘を作るために大量の銅を使った。銅銭が足りなくなっていた時代に、これは見過ごせない問題だった。819年には、文人の韓愈が、仏陀の骨を宮中に迎える皇帝をいさめて流罪になっている(韓愈「論仏骨表」)。儒家の側からの仏教への反発も、根強く続いていた。
840年に即位した武宗は、道教に深く傾倒した皇帝だった。不老長生の術を求めて道士たちを宮中に招き、とりわけ趙帰真という道士を重んじた。道士たちは、仏教は異国の教えで、国の富を食いつぶしていると皇帝に説いた。宰相の李徳裕も、財政を立て直す立場から寺院の整理を進めた。
弾圧は、842年ごろから段階を追って厳しくなった。まず、戒律を守らない僧や、正式な登録のない僧が還俗させられ、その財産が取り上げられた。843年には、ウイグルの後ろ盾を失ったマニ教が禁じられた。そして845年、武宗は大規模な廃仏の勅を出した。長安と洛陽にはそれぞれ数か所の寺だけを残し、地方の州にも原則として一つの寺しか残さない。それ以外の寺はすべて壊す。
勅令の結果を伝える報告によれば、壊された寺は4600あまり、小さな寺や庵は4万あまりにのぼった。還俗させられて税を納める民に戻された僧尼は26万500人、寺から解放されて税を課される身となった隷属民は15万人。没収された寺の田地は数千万頃に及んだとされる。銅の仏像や鐘は溶かされて銭になり、鉄の像は農具に、金や銀の像は国庫に納められた。仏教だけでなく、ゾロアスター教やネストリウス派のキリスト教(景教)など、異国から来た宗教も同時に禁じられ、その僧たちも還俗させられた。
このとき長安には、日本から来た僧円仁が滞在していた。彼は838年に遣唐使の一行とともに唐へ渡り、各地で仏法を学んでいた(円仁の入唐求法)。円仁は日記に、寺が次々に壊され、経典や仏像が焼かれ、僧たちが追い立てられる様子を書き留めている。外国の僧である彼も還俗を命じられ、俗人の姿に身をやつして長安を離れ、苦労の末に日本へ帰った。この日記は、廃仏を内側から見た最も詳しい記録の一つとして、いまも読まれている。
廃仏の翌846年、武宗は32歳で亡くなった。道士たちの勧める丹薬、つまり水銀などを含む不老長生の薬を飲み続けたための中毒とみられている。後を継いだ宣宗は、ただちに仏教を許し、趙帰真らの道士を処刑した。寺の再建も認められ、僧も再び出家できるようになった。
だが、失われたものは元に戻らなかった。寺院の荘園と財産、そして何よりも、寺に蓄えられていた膨大な経典や注釈書と、それを読み解く学僧たちの伝統が断ち切られた。経典の緻密な研究を土台とする華厳宗や法相宗、密教などの宗派は、この打撃から立ち直れずに衰えていった。その後、唐が滅亡(唐の滅亡)へと向かう戦乱の時代を迎えたことも、復興を難しくした。
生き残ったのは、経典や寺院の財産にそれほど頼らない宗派だった。坐禅と師から弟子への直接の伝えを重んじる禅宗と、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えて浄土への往生を願う浄土の教えである。山の中の小さな寺や、民衆の中で広まったこれらの教えは、のちの宋の時代に中国の仏教の主流となり、日本にも伝わっていく。北魏、北周、唐、後周の四度の廃仏をまとめて「三武一宗の法難」と呼ぶが(北周の廃仏、後周世宗の廃仏)、その中で最大のものとされる会昌の廃仏は、中国の仏教の姿を大きく変える節目となった。