漢の成立
概要
劉邦が項羽を破って皇帝に即いた。同じ頃、地中海ではローマがハンニバルを退けている。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
劉邦BC256年頃(BC247年説あり)–BC195年 · 当人本文
紀元前221年、秦は中国を初めて一つにまとめた。だが厳しい法と重い労役は人々を疲れさせ、始皇帝の死の翌年、紀元前209年には陳勝・呉広の乱が起きる。反乱は各地に飛び火し、滅ぼされた六国の王族や豪族たちが次々に兵を挙げた。
その中に、沛の町で亭長を務めていた男がいた。劉邦である。亭長は、宿場と治安を預かる村の下級役人にすぎない。生まれは庶民の家で、若いころは家業を手伝わず、酒と人づきあいを好んだと『史記』は書く。役目で労役の人夫を引率していたとき、逃げ出す者が相次ぎ、このままでは自分も罰せられると、残りの者を解き放って山中に逃れた。それが挙兵の始まりだったと伝えられる。
反乱軍の中で最も強かったのは、楚の名門の出の項羽だった。秦の主力を打ち破ったのは項羽だが、先に関中へ入り、秦の都咸陽を降したのは劉邦だった。紀元前206年のことである。このとき、蕭何はまっ先に秦の丞相府に入り、全国の地図と戸籍、法令の文書を運び出させた。将兵たちが財宝に群がるなか、天下の地形と人口と税の在りかを手に入れたことが、のちの楚漢の戦いで漢の補給を支えることになる。劉邦は宮殿の財宝に手を付けずに封じ、秦の煩雑な法を廃して、人を殺せば死罪、人を傷つけたり盗んだりすれば罰する、という「法三章」を約束した。人々は喜んだと伝えられる。
遅れて着いた項羽は激怒した。鴻門の会で劉邦は命を狙われたが、辛くも逃れた。項羽は咸陽を焼き、自分は西楚の覇王を名乗り、劉邦を辺境の漢中に封じた。これが「漢」の名の由来になる。

それから4年、楚と漢の戦いが続いた。戦場では項羽がほとんど負けなかった。それでも劉邦は、負けても負けても兵と食糧が尽きなかった。後方では蕭何が関中を治めて補給を絶やさず、韓信が別の方面から北の諸国を平らげた。紀元前202年、垓下の戦いで項羽は囲まれ、四方から楚の歌が聞こえるのを聞いて、楚の地がすべて漢に降ったと嘆いたという。項羽は烏江のほとりで自ら命を絶った。同じ年、劉邦は皇帝の位についた。
洛陽の宮殿で開かれた宴で、劉邦はなぜ自分が天下を得たのかを家臣に問い、自ら答えたと『史記』は記す。策をめぐらせて千里の外の勝ちを決めることでは張良に及ばない。国を治め、民をいたわり、補給を絶やさないことでは蕭何に及ばない。大軍を率いて必ず勝つことでは韓信に及ばない。だが自分はこの三人を使うことができた。項羽には范増が一人いたが、それすら使えなかった、と。

都ははじめ洛陽に置かれたが、守りやすい関中に移すべきだという進言を受け入れ、長安へ移った。秦の郡県制をそのまま採らず、都に近い地域は直轄の郡県とし、東の広い地域には功臣や一族を王として封じた。郡国制である。韓信をはじめ、劉氏でない功臣の王たちは、その後数年のうちに謀反の疑いをかけられて次々に除かれた。韓信は捕らえられたとき、すばしこい兎が死ねば猟犬は煮られる、と言ったと伝えられる。
残った劉氏の王たちも、代が下るにつれて都と疎遠になった。その封建が、後に呉楚七国の乱の種になる。

法三章の約束は、実際には長く続かなかった。秦の法を簡素にすると言いながら、漢は秦の律令の大半を引き継いでいる。1983年に湖北省の張家山で見つかった竹簡の法律は、漢の初めの律令が秦のものと驚くほど似ていることを示した。
外には、北の草原で冒頓単于のもとにまとまった匈奴がいた(匈奴の統一)。紀元前200年、劉邦は自ら討伐に出て白登山で包囲され、命からがら逃れた。以後の漢は、皇族の娘を嫁がせ、絹や酒食を贈って和を保つ道を選ぶ。この関係を力でひっくり返すのは、60年ほど後の漢の武帝である。

劉邦は紀元前195年に死んだ。反乱を鎮める戦いで受けた矢傷がもとだったとされる。その後は皇后だった呂后が実権を握り、劉邦の寵愛した妃とその子を惨殺したと『史記』は伝える。呂后が死ぬと、重臣たちは呂氏の一族を除き、劉邦の子の一人を迎えて皇帝とした。文帝(漢)である。文帝と次の景帝の時代、漢は税を軽くし、刑罰を和らげ、なるべく民に手を出さない政治を続けた。戦乱で減った人口と荒れた田畑はこの数十年で回復し、国の倉には食糧と銭が積み上がった。武帝の大遠征を支えたのは、この蓄えである。
劉邦の一代を、場面が見えるほど生き生きと書き残したのは、100年ほど後に『史記』を著した司馬遷だった(『史記』の完成)。宴の言葉も、垓下の歌も、その筆を通して伝わっている。どこまでが記録で、どこからが司馬遷の筆の力なのかは、確かめようのないところも多い。

同じ紀元前202年、地中海ではザマの戦いでローマがハンニバルを退けていた。東西で、その後数百年続く大きな枠組みがほぼ同時にできる。漢は前後あわせて400年続き、その民はやがて自らを「漢人」と呼ぶようになった。いま中国の人口の大多数を占める民族の名と、その文字の名は、この王朝から来ている。