朱全忠(朱温)
概要
黄巣の部将から唐に降り、全忠の名をもらい、宦官を皆殺しにし、皇帝を殺し、唐を滅ぼして後梁を建てた。息子に殺された。五代の最初の皇帝。
所属
五代十国関わったできごと(1)
唐の滅亡AD907年 · 簒奪本文
852年、宋州碭山(いまの安徽省北部)の貧しい家に生まれた。父の朱誠は村の子どもに読み書きを教える教師だったが早くに死に、母は三人の息子を連れて、隣の蕭県の地主劉崇の家に住み込みで働いた。三男の温は腕力が強く乱暴で、働こうとせず、村人から嫌われた。劉崇はたびたび彼を鞭打ったが、劉崇の母だけはこの子がただ者ではないと言ってかばった、と史書は伝える。のちに皇帝となった者には、こうした話が付き物である。

唐の末期、塩の密売人だった黄巣らが起こした反乱が中国全土を揺るがしていた(黄巣の乱)。877年頃、朱温は兄の朱存とともに黄巣の軍に身を投じた。兄は戦死したが、朱温は手柄を重ねて将となった。880年、黄巣は長安を落として皇帝を名乗り、朱温は長安の東の同州を任された。
だが黄巣の政権は長くもたなかった。882年、唐の側の河中節度使王重栄に攻められて苦戦し、黄巣に援軍を求めても届かないことを悟った朱温は、唐に寝返った。四川に逃れていた僖宗は大いに喜び、「全忠」、つまり忠を全うする者という名を与えた。翌883年には、運河と黄河の交わる要地、汴州(いまの開封)を治める宣武軍節度使に任じられた。黄巣を破る側に回った彼は、ここを拠点に勢力を伸ばしていく。
884年、黄巣を追い詰めた立役者は、北方の沙陀族を率いる李克用だった。帰り道、朱全忠は李克用を汴州に招いて宴を開き、酔って寝静まったところを、宿舎の上源駅に兵を放ち火をかけて殺そうとした。激しい雷雨で火は消え、李克用は城壁を縄で降りて逃れた。この夜から、朱全忠と李克用、そしてその子の李存勗の家との争いは、40年にわたって続く。
890年代、朱全忠は河南と山東の節度使たちを次々に倒し、華北の東半分を手に入れた。一方、長安の唐の朝廷は、宦官と宰相と、近くの節度使たちに引き裂かれていた。901年、宰相の崔胤は宦官を除くため朱全忠を長安に呼び寄せた。宦官たちは昭宗を連れて西の鳳翔へ逃げ込み、鳳翔の李茂貞がこれをかくまった。朱全忠は鳳翔を一年以上囲み、城内が飢えて人肉を売るまでになると、903年、李茂貞は昭宗を引き渡した。長安に戻った朱全忠は、宮中の宦官数百人をまとめて殺した。100年以上唐の朝廷を左右してきた宦官の力は、ここで断たれた。
もはや朝廷に朱全忠を抑える者はいなかった。904年、彼は自分を呼び寄せた崔胤を殺し、昭宗を長安から自分の勢力圏に近い洛陽へ移させた。長安の宮殿や役所や民家は取り壊され、その木材は川に流して洛陽へ運ばれた。長安が都であった時代はここで終わる。同じ年の8月、朱全忠は部下に命じて昭宗を殺させ、13歳の息子を帝位に就けた(哀帝)。そのうえで、手を下した部下二人を罪に問うて殺し、自分は知らなかったという体裁を整えた。
905年には、唐の名門出身の高官30人余りを黄河のほとりの白馬駅で殺し、遺体を黄河に投げ込んだ。側近の李振が、この連中はいつも自分たちを清流と称している、黄河に投げて濁流にしてやればよい、と言ったという。科挙に落ち続けた李振の、門閥貴族への恨みがこもった言葉だった。唐の貴族社会は、この暴力でとどめを刺された。
907年、朱全忠は哀帝から帝位を譲られる形で皇帝となり、国号を梁とした。後梁である(唐の滅亡)。名を晃と改めた。翌年、退位した哀帝を殺した。300年近く続いた唐はこうして消え、中国は五つの短い王朝が華北で入れ替わり、南に十余りの国が並び立つ時代に入った(五代十国)。
皇帝になった朱全忠は、北の晋(李克用の勢力)を倒せなかった。908年に李克用が死ぬと、跡を継いだ李存勗はすぐに後梁の包囲軍を潞州で破った。朱全忠は嘆いて、子を持つなら李存勗のような子がいい、李克用は死んでも滅んではいない、それに比べて我が子らは豚か犬だ、と言ったという。911年には柏郷で大敗し、北への道は閉ざされた。
家の中も荒れていた。賢明で知られた妻の張氏は、生前、夫の乱暴をたびたびいさめて抑えたと伝わるが、904年に先立っていた。晩年の朱全忠は、息子たちの妻を宮中に呼んで侍らせたと史書は記す。912年、病が重くなると、跡継ぎに養子の朱友文を選んだ。それを知った実子の朱友珪は、6月、兵を率いて夜の宮殿に押し入った。朱全忠は柱のまわりを逃げ回ったが、刺し殺された。数えで61歳。
朱友珪は翌年、弟の朱友貞に倒された。その朱友貞も923年、李存勗の後唐の軍が開封に迫ると、側近に自分を殺させた。後梁はわずか16年で滅んだ。黄巣の部将から唐の節度使になり、唐を滅ぼした男は、後の史家から裏切りと簒奪の代名詞として扱われた。ただ、彼が都を長安から東へ移したことは結果として長く残った。のちの宋が都を置いたのは、彼が拠点とした開封である。