吐蕃の長安占領
概要
安史の乱で唐が弱ったところへ、高原の軍が都に入った。15日で退くが、唐が西域を失う流れはここで決まる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
7世紀の前半、ソンツェン・ガンポがチベットの高原をまとめ(吐蕃の高原統一)、吐蕃と呼ばれる王国が生まれた。唐は641年に皇族の娘、文成公主を嫁がせ(文成公主の入蔵)、710年にも金城公主を送って和を結んだ。だが吐蕃は、高原から下りて周りの土地へ勢力を広げようとし、西のタリム盆地のオアシス都市や、東の青海の草原をめぐって、唐と何度も戦った。唐は西の辺境に大軍を置いて、これに備えていた。
755年、唐の東北の辺境で、節度使の安禄山が反乱を起こした(安史の乱)。反乱軍は洛陽と長安を落とし、玄宗は都を捨てて蜀へ逃れた。唐は反乱を鎮めるために、西の辺境の軍を次々に東へ呼び戻した。河西、隴右と呼ばれた、いまの甘粛から青海にかけての守りが空になった。

吐蕃はその隙を逃さなかった。王ティソン・デツェンのもとで、吐蕃の軍は隴右の州を次々に奪い、唐の都の西の守りを崩していった。763年の初め、安史の乱はようやく終わったが、唐の国力は尽きかけていた。
763年の秋、吐蕃の軍は、吐谷渾や党項などの軍勢を加えて東へ進み、長安に迫った。その数は20万とも伝えられる。唐の朝廷では、宦官の程元振が辺境からの急報を握りつぶし、皇帝代宗が気づいたときには敵はすぐ近くまで来ていた。代宗は都を捨てて東の陝州へ逃れた。8年前の玄宗に続いて、皇帝が二度、都を捨てたことになる。

吐蕃の軍は長安に入った。そして、金城公主の兄弟にあたる唐の皇族を担ぎ出して皇帝に立て、年号まで改めさせた。市中は略奪され、多くの人が連れ去られた。
唐の名将郭子儀は、わずかな兵を集めると、昼は旗を多く立て、夜は太鼓を打ち鳴らし火を焚いて、大軍が都を取り返しに来たように見せかけたと伝わる。吐蕃の軍は15日ほどで長安から退いた。もともと都を保つつもりは無く、略奪と人を連れ去ることが目的だったと見られている。

ラサのポタラ宮の麓に、この頃に建てられた石柱が立っている。吐蕃の将軍タクダ・ルコンの功績をたたえたもので、彼が唐の都を攻め、皇帝を逃げさせ、新しい皇帝を立てたことが、チベット語で刻まれている。唐の史書が恥として書き留めたできごとを、吐蕃は誇りとして石に刻んだ。
長安からはすぐに退いたが、この戦いで流れが決まった。唐はこのあと、都の西の守りのために毎年秋に大軍を西北の辺境へ送らねばならなくなった。吐蕃が秋に攻めてくるのを防ぐためで、「防秋」と呼ばれた。吐蕃はその後、河西の諸州を一つずつ落とし、唐と西域を結ぶ回廊を断ち切った。タリム盆地に置かれた唐の安西都護府と北庭都護府は、本国から切り離されたまま、北のウイグル可汗国の領内を回る道でわずかに連絡を保ちながら、790年前後まで持ちこたえ、やがて消えた。中原の王朝がタリム盆地を直接治めることは、そのあと長いあいだ無かった。

敦煌も、8世紀の後半に吐蕃の手に落ち、848年に張議潮が吐蕃の守備兵を追い出すまで、60年あまり吐蕃のものだった。敦煌の石窟から見つかった文書に、チベット語のものが大量に含まれているのはそのためになる(敦煌の石窟の造営)。吐蕃の支配のもとでも、敦煌の仏教の寺は続き、石窟の造営も行われた。
唐と吐蕃はその後も戦いと和睦を繰り返し、821年から822年にかけて、ついに和平を結んだ。唐が「舅」、吐蕃が「甥」として、互いの境界を尊重することを誓ったその条文は、823年にラサの大昭寺の前に建てられた石柱に、漢語とチベット語の両方で刻まれ、いまも残っている。

この頃を境に、両方の帝国は衰えへ向かう。吐蕃は9世紀の半ばに王家が分裂して崩れ、唐も唐の滅亡へと向かっていく。763年の15日間は、唐が世界帝国から、守りに追われる王朝へと変わったことを、最もはっきりと示したできごとだった。