できごと

北周の廃仏

Northern Zhou's suppression of Buddhism
AD574年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民突厥フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシア柔然Jin Empire北魏(拓跋魏)ヴァーカータカ朝扶南高句麗クリカンクシャーナ系の諸侯国アイヌラヴォ日本チャンパKadambasVishnu-Kundins新羅PallavasシンハラAD574年長安
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD574年の版図を描いています(21勢力)。

概要

武帝が仏教と道教を同時に廃し、300万の僧を還俗させ、4万の寺を貴族に与えた。「私は五胡ではない、地獄など恐れない」と言った。4年後に死に、次の隋がすべてを戻す。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

本文

6世紀の華北は、東の北斉と西の北周に分かれて争っていた。北周は、宇文泰が西魏の実権を握って築いた国を、その子たちが帝位に就けて建てた王朝である。仏教は北朝で厚く保護され、寺と僧は増え続けていた。僧になれば兵役と税を免れる。寺は田と人を抱え、国の手の届かないところに富がたまる。北斉と国の存亡をかけて戦う北周にとって、それは見過ごせない問題だった。

武帝の宇文邕は、即位してしばらくは従兄の宇文護に実権を握られていた。572年に宇文護を自ら殺して親政を始めると、武帝は国の立て直しに乗り出した。仏教については、567年に元は僧だった衛元嵩という人物が、寺と僧を減らすよう上奏していた。武帝は儒教・道教・仏教のどれが上かを、朝廷に学者と僧と道士を集めて何度も論じさせた。573年、順序は儒教を先、道教を次、仏教を後と定められた。

北周の武帝の肖像
北周の武帝の肖像Wikimedia Commons Yan Liben · Public domain

論争は激しかった。570年には甄鸞が、道教の経典の矛盾をあげつらう『笑道論』を献上したが、武帝はこれを朝廷で焼かせたという。仏教の側からは道安が『二教論』を著し、儒教と仏教こそが教えであって、道教は教えに数えるに足りないと論じた。武帝の狙いは、どちらの肩を持つことでもなく、宗教全体を国家の下に置き直すことにあった。

574年5月、武帝は仏教と道教をともに廃した。経典と仏像を壊し、僧と道士を還俗させ、寺と道観の財産を臣下や王族に分け与えた。仏教だけでなく道教まで廃したのは、一方だけを罰するのは公平でないという理屈だったとされる。代わりに通道観という役所を置き、両方の学者のうち優れた者を集めて研究させた。宗教をなくすのではなく、国の管理の下に置き直すことが狙いだった。

還俗させた僧は300万人、寺は4万を王公に与えた、と仏教の側の記録は書く。数には誇張があるとみられるが、人口のかなりの割合が僧籍にあったのは確かで、還俗した人々は戸籍に戻されて税を納め、兵として軍に編入された。北周の軍の力は、これで大きく増したと考えられている。

577年、武帝は北斉を滅ぼして華北を統一し、北斉の領内でも同じように仏教を廃した。北斉の都の鄴で、武帝は僧たちを集めて廃仏を告げた。そのとき慧遠という僧が進み出て、陛下は地獄に落ちると諫めたという。武帝は「民が安楽であるなら、私は地獄の苦しみも辞さない」と答えたと伝えられる。別の伝えでは、武帝は「私は五胡ではない。心から敬わないものを敬う理由はない」とも言ったという。北方の異民族の君主たちが仏教を保護してきたことを踏まえ、自分は中華の正統の君主として儒教の秩序を立てるのだ、という意識がうかがえる。北周の宇文氏は鮮卑の出であり、この言葉には複雑な響きがある。

北斉を滅ぼした翌年の578年、武帝は北の突厥を討つために出陣し、その途中で病にかかって死んだ。数えで36歳だった。跡を継いだ宣帝は579年に仏教と道教の一部を許した。宣帝の妻の父だった楊堅は、宣帝の死後に幼い静帝を後見し、581年に帝位を奪って隋を建てた。楊堅は生まれてすぐに寺の尼に預けられて育ったと伝えられ、即位すると仏教を手厚く保護し、各地に寺と仏塔を建てさせた。北周の廃仏は、武帝一代の短い政策に終わった。

それでも、武帝が廃仏で取り戻した人と財は、北周の国力を支え、隋による隋の中国再統一の土台の一部になったとみる見方がある。仏教の側から見れば、廃仏は法難であり、この経験はやがて末法の思想を強め、経典を石に刻んで後世に残そうとする動きにつながったともいわれる。中国の歴史で仏教を大きく弾圧した四人の君主を「三武一宗」と呼ぶ。北魏の太武帝の廃仏、この北周の武帝、唐の武宗の会昌の廃仏、後周の世宗の後周世宗の廃仏である。武帝の廃仏は、殺戮をともなわず、道教も同時に廃した点で、四つの中でも性格が異なる。

同じ時代のできごと

真興王の巡狩碑AD561年カラクムルとティカルの戦争AD562年コルンバのアイオナ修道院AD563年ランゴバルドのイタリア侵入AD568年蘇我氏と物部氏の戦いAD587年隋の中国再統一AD589年西ゴートのカトリック改宗AD589年グレゴリウス1世の即位AD590年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD574年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →