人物

劉邦

Liu Bang
BC256年頃(BC247年説あり) – BC195年(享年61・推定)
前漢重要度 4

概要

一介の亭長から身を起こし、秦の崩壊後の争いを制して漢を開いた。

別名

漢の高祖

所属

前漢

関わったできごと(3)

鴻門の会BC206年 · 逃げた側漢の成立BC202年 · 当人垓下の戦いBC202年 · 漢側 · 総指揮

本文

劉邦は、いまの江蘇省北西部、沛県の豊邑の農家に生まれた。生まれた年は紀元前256年とも紀元前247年ともいわれ、はっきりしない。字は季で、兄弟の末子を意味する。名の「邦」も後世の記録で定着したもので、若い頃はただ劉季と呼ばれていた。

劉邦(漢の高祖)の肖像
劉邦(漢の高祖)の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

壮年になって、秦の地方の最下級の役人である亭長になった。『史記』によれば、彼は家業に励まず、酒と女を好み、つけで酒を飲んでは払わなかった。学問を嫌い、儒者の冠を取ってそこに小便をしたという話まで載っている。それでも鷹揚で人に好かれた。地元の有力者の呂公が彼の人相を見込み、娘を嫁がせた。のちの呂后である。

秦の始皇帝の陵墓を造る工事のために、劉邦は囚人たちを護送することになった(始皇帝)。途中で逃亡者が相次ぎ、このままでは到着しても罰を受けるだけだと考えた彼は、残りの囚人を解き放ち、自分も山中に身を隠した。ついてきた十数人が最初の手勢になった。大蛇を斬ったところ、その母という老女が、赤帝の子が白帝の子を斬ったと泣いていた、という話は、のちの王朝が作った伝説とみられる。

明代の『三才図会』に描かれる劉邦
明代の『三才図会』に描かれる劉邦Wikimedia Commons WangQi · Public domain

紀元前209年、陳勝・呉広の乱が起きると(陳勝・呉広の乱)、沛の人々は県令を殺して劉邦を迎え入れた。沛公と呼ばれた彼は、やがて楚の名門の項梁と、その甥の項羽の陣営に加わった。楚の懐王は、最初に関中(秦の本拠地)に入った者をその王とすると約束した。項羽が北で秦の主力と戦っている間に、劉邦は西から進み、紀元前207年、秦の都咸陽の近くで秦王子嬰の降伏を受けた。

関中に入った劉邦は、宮殿の財宝に手をつけず、秦の苛酷な法を廃して、人を殺した者は死刑、人を傷つけた者と盗んだ者は罰する、という三条だけを約束した。法三章と呼ばれる。民の心をつかむ策で、側近の張良らの進言による。だが後から入った項羽は四十万の大軍を擁していた。鴻門での宴(鴻門の会)で劉邦は命を狙われ、ひたすら謝って逃げ帰った。関中は取り上げられ、彼は辺境の漢中の王とされた。漢という国号はここから来ている。

鴻門の会に関わる図版:Hongmen Banquet Luoyang Museum
鴻門の会Wikimedia Commons ChenDaoIsHere · Public domain

それから4年余り、劉邦と項羽の戦いが続いた。戦場での劉邦は、ほとんど負け続けた。紀元前205年には、項羽の留守を突いて楚の都彭城を占領したが、引き返してきた項羽の3万の兵に大敗した。逃げる馬車を軽くするため、劉邦は自分の子どもたちを車から突き落とし、そのたびに御者が拾い上げたという。項羽が捕らえた劉邦の父を煮殺すと脅したときには、我々は兄弟の契りを結んだのだから、お前の父でもある、煮たならその汁を一杯分けてくれ、と言い返した。

それでも勝ったのは、劉邦の側だった。本拠地の関中では蕭何が兵と食糧を送り続け、蕭何に推された韓信が北方の諸国を次々に平らげて、項羽を包み込んだ。紀元前202年、項羽は垓下で囲まれ、四方から楚の歌が聞こえる中で敗れ、自ら首をはねた(垓下の戦い)。劉邦はその年のうちに皇帝の位に就いた。

劉邦の肖像
劉邦の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

即位を祝う宴で、劉邦は家臣に、なぜ自分が天下を取り、項羽が失ったのかを問うた。そして自ら答えている。陣営の中で策を巡らせ千里の外で勝ちを決めることでは張良に及ばない。国を治めて民をいたわり、兵糧を絶やさないことでは蕭何に及ばない。百万の兵を率いて必ず勝つことでは韓信に及ばない。だが自分はこの三人を使うことができた。項羽には范増一人しかいなかったのに、それすら使えなかった、と。

天下を取った後の劉邦は、功臣たちに厳しかった。韓信は王から侯に落とされ、紀元前196年、反乱を企てたとして呂后に殺された。同じ頃、彭越や英布ら、皇族でない王たちも次々に滅ぼされた。北では匈奴の冒頓単于と戦い、紀元前200年に白登山で7日間包囲された(白登山の戦い)。辛くも逃れた劉邦は、皇族の娘を単于に嫁がせ、絹や食物を毎年贈る和親策に切り替えた。漢が匈奴に攻勢に出るのは、70年近く後の武帝の時代である。

白登山の戦いに関わる図版:Shanhukouvillage Datong Shanxi
白登山の戦いWikimedia Commons Chlukoe · CC0

紀元前195年、劉邦は英布の反乱を自ら討ったときに受けた矢傷が悪化し、長安で死んだ。その帰り道、故郷の沛に立ち寄り、昔なじみと宴を開いて、大風起こりて雲飛揚す、と始まる歌を歌って涙を流したという。

劉邦は、農民の出から皇帝になった中国史で最初の人物である。秦の滅亡を見ていた彼は、秦の法令の多くを引き継ぎながらも、地方の一部に一族の王国を置くなど、秦ほど急がない統治を選んだ。こうして始まった漢は、王莽による中断をはさみ、光武帝による再興を経て、400年続いた。中国の人々がいまも自らを漢民族と呼ぶのは、この王朝の名に由来する。

動画(1)

033 前漢の成立 世界史20話プロジェクト第05話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第33講「前漢の成立」
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