人物

苻堅

Fu Jian
AD338年 – AD385年(享年47・推定)
前秦重要度 4

概要

氐族。暴君の従兄を殺して王になり、王猛を得て「私と王猛は劉備と諸葛亮」と言った。華北を統一し、敵の王たちを殺さず側に置いた。王猛の遺言「晋を攻めるな」を破って淝水へ。逃げ帰り、羌の姚萇に捕えられて縊られた。

関わったできごと(2)

前秦の華北統一AD376年 · 皇帝淝水の戦いAD383年 · 前秦の皇帝

本文

苻堅、字は永固。338年、後趙の都の鄴で、氐族の首長の家に生まれた。祖父の苻洪は後趙に仕えた氐の大族の長で、後趙が崩れると一族を率いて関中へ向かった。叔父の苻健が長安で前秦を建てる。父の苻雄はその重臣だった。『晋書』は、苻堅の背中に「草付臣又土王咸陽」という赤い文字が浮き出ていたと書く。草と付で「苻」、臣と又と土で「堅」。苻堅が咸陽で王となるという意味になる。もちろん後の書き手の飾りである。

苻堅(小説の挿絵より)
苻堅(小説の挿絵より)Wikimedia Commons see below · Public domain

同じ『晋書』には、8歳のとき祖父に師をつけてほしいと頼んだ話がある。苻洪は「我ら戎狄は代々酒を飲むことしか知らないのに、学問を求めるのか」と笑い、喜んで許したという。草原の騎馬の民の首長の子が、漢人の学問に引かれていった。この傾きは生涯変わらなかった。

355年、苻健が死に、子の苻生が継いだ。苻生は片目が見えず、それをあてこする言葉を嫌って、「不足」「少ない」「欠ける」といった語を口にした者を殺したと伝わる。重臣も皇后の一族も次々に殺され、宮廷は恐怖に包まれた。暴君の悪行は、それを倒した側が書いた記録で、割り引いて読む必要がある。357年、苻堅は従兄の苻生を襲って殺し、皇帝ではなく「大秦天王」を名乗って即位した。20歳になるかならないかである。

即位前から、苻堅は漢人の王猛と出会っていた。貧しい家の出で、東晋の将軍桓温の前でも虱をつぶしながら天下を論じたという男である。苻堅は王猛について、自分にとっての王猛は劉備にとっての諸葛孔明だと言ったと『晋書』は記す(諸葛亮)。王猛は法を厳しく使い、権勢をふるう氐の貴族たちを容赦なく裁いた。氐の重臣の樊世が、王猛を「我らが耕した畑の実りを、お前が食うのか」と罵ると、苻堅は樊世を斬らせた。同族の功臣より漢人の宰相を選んだのである。

苻堅は自ら太学に通って学生の試問をし、農業を勧め、長安から地方へ延びる道に槐と柳を植えさせた。旅人は木陰で休み、20里ごとに宿場があったと記録は伝える。戦乱の続いた華北で、関中にだけ一時の平穏が訪れた。

370年、王猛の率いる軍が東の前燕を滅ぼし、都の鄴を落とした。続いて西の前涼、北の代を下し、376年までに華北はほぼ一つになった(前秦の華北統一)。西晋が倒れて以来、およそ60年ぶりのことだった。379年には東晋の要地襄陽を落として、名高い僧の道安を長安へ迎えた。苻堅は「十万の軍で襄陽を取って、得たのは一人半だけだ」と語ったという。一人は道安、半分は学者の習鑿歯である。382年には将軍呂光を西域へ送ったが、その目的の一つは亀茲にいた鳩摩羅什を連れてくることだったとされる(鳩摩羅什の長安入り)。

苻堅の統治のいちばんの特徴は、降した敵を殺さなかったことである。前燕の皇帝慕容暐は殺されず、官職を与えられた。前燕の名将で、内紛を逃れて前秦に身を寄せていた慕容垂は重く用いられた。王猛は慕容垂を危ぶんで除こうとまでしたが、苻堅は「殺せば天下の士は私を信じなくなる」と退けた。鮮卑の民は何万戸も関中へ移され、逆に氐族は各地の守りとして散らされた。都の周りには、氐よりも鮮卑や羌が多く住むようになった。

375年、王猛が死んだ。苻堅は葬儀で泣き、天は私に天下を平らげさせないつもりか、と嘆いたという。王猛は死ぬ前に、東晋は正統の王朝として人心をつかんでいるから攻めてはならない、本当の敵は国の中にいる鮮卑と羌だ、と言い残したと伝わる。

382年、苻堅は東晋を攻めると言い出した。群臣の多くが反対し、弟の苻融も、道安までもが止めた。賛成したのは慕容垂と、羌の首長の姚萇らだけだった。383年、苻堅は大軍を南へ向けた。記録では歩兵60万、騎兵27万を号するが、実際に前線に着いたのはその一部で、先鋒の苻融の軍が主力だった。対する東晋は宰相謝安が甥の謝玄らに率いさせた北府の兵、8万ほどとされる。

寿春の城から晋の陣を眺めた苻堅は、八公山の草木まで兵に見えて、「これは手強い敵だ、誰が弱いと言った」とおびえたと伝わる。淝水を挟んで向き合ったとき、晋の側は川を渡って決戦したいから少し下がってくれと申し入れた。苻堅は渡りかけたところを騎兵で討つつもりで後退を命じたが、退き始めた軍は止まらなかった。もとは晋の将で捕虜になっていた朱序が陣の後ろで「秦軍は敗れた」と叫び、全軍が崩れた。苻融は馬から落ちて討たれ、苻堅も矢を受けて北へ逃げた。逃げる兵は風の音や鶴の声まで追手と思ったという。「風声鶴唳」と「草木皆兵」の故事はここから出た(淝水の戦い)。

敗残の中で、無傷の3万の兵を持っていたのは慕容垂だけだった。慕容垂は苻堅を守って洛陽まで送り届けたが、翌384年、河北へ戻って自立し、後燕を建てた。姚萇も背いて後秦を建てた。慕容暐の弟の慕容沖が長安を囲み、苻堅が殺さずに置いた者たちが一斉に牙をむいた。

385年、苻堅は長安を出て五将山へ逃れたが、姚萇の兵に捕らえられた。姚萇は天子の印である伝国の璽を渡し、禅譲せよと迫った。苻堅は、璽はもう晋に送った、羌の分際で何を言うかと罵り、拒んだという。その年、新平の寺で縊り殺された。48歳。そばにいた二人の娘と夫人も自ら命を絶った。

苻堅は五胡十六国の君主のなかで、ほとんどただ一人、後世の史家から仁君と呼ばれる人である。氐族の天王が、漢人の宰相を立て、学問を重んじ、敵を許した。その寛容が華北を一つにし、同じ寛容が、淝水の一敗で国を一瞬に崩した。もし淝水で勝っていれば、中国の再統一は2世紀早まったかもしれない。実際にそれをなしとげたのは、北の遊牧の血を引く人々が作った隋だった(隋の中国再統一)。

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