水運儀象台
概要
北宋の都開封で、官僚の蘇頌は、高さ十メートルを超える時計の塔を造らせた。水で回る大きな車輪が、一定の間を置いて一段ずつ進む仕掛けで回り、塔のてっぺんの天球儀と、星の動きを示す球を動かす。塔の中では、木の人形が時刻ごとに現れ、鐘を鳴らし、太鼓を打ち、時を記した札を掲げた。暦を正しく保つことは、天の意思を知る皇帝の仕事である。塔は、その仕事を機械にやらせる試みだった。三十数年後、都が女真の金に落ちると、塔は解体されて北へ運ばれ、二度と動かなかった。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
本文
中国の皇帝は天子と呼ばれた。天の命を受けて地上を治める者、という意味である。だから皇帝は天の動きを正しく知っていなければならない。日食や月食を前もって言い当て、季節のめぐりに合った暦を配り、時刻を正しく告げる。予報が外れれば、天の意思を読めない天子だと言われかねない。天文と暦は、王朝の正しさを支える仕事だった。漢の太初暦以来、王朝が替わるたびに暦が作り直されたのも、そのためである。
蘇頌(1020〜1101年)は北宋の官僚である。地方官から中央の要職を経て、晩年には宰相にまで上った。学識の広い人で、薬草の図を集めた本草の書を編み、天文にも通じていた。遼に使いしたとき、宋と遼の暦で冬至の日が一日ずれていたのを、機転で取り繕って面目を保ったという逸話が伝わる。暦の正確さが国の体面にかかわることを、身をもって知っていた人だった。
1086年ごろ、蘇頌は皇帝の命を受けて、天体観測と時刻を一つにまとめた大きな器械の製作にとりかかった。仕組みを実際に考え、組み上げたのは、算術と機械に通じた役人の韓公廉だったとされる。まず木で模型を作って試し、そのうえで青銅を使った本物を造り、1092年ごろ、都の開封の宮中で動き始めた。これが水運儀象台である。
塔の高さは12メートルほどあった。いちばん上の階には、星の位置を測る観測器(渾儀)が置かれ、屋根の板を外して空を見られるようになっていた。その下の階には、星座を描いた天球儀(渾象)が据えられ、本物の空と同じ速さでゆっくり回った。さらにその下は五段の木の楼閣で、時刻を告げる人形が並んでいた。
すべてを動かしたのは水である。塔の内側には直径3メートルを超える大きな水車があり、その縁に小さな桶がいくつも並んでいる。上の水槽から一定の速さで水が注がれ、一つの桶に水が溜まって決まった重さになると、桶が傾き、止めの仕掛けが外れて水車が一歩だけ進む。すぐにまた別の止めがかかり、次の桶が満ちるまで水車は待つ。こうして水車は、一定の間を置いて一段ずつ回り続けた。
この「止めては放す」仕組みは、のちのヨーロッパの機械時計で脱進機と呼ばれるものと同じ考え方である。連続した力を、等しい刻みの動きに変える。ヨーロッパに歯車と錘で動く時計が現れるのは13世紀の終わりごろで(機械時計と、等しい一時間)、蘇頌の塔はそれより200年ほど早い。唐の8世紀にも、僧の一行らが水で回る天球儀を作っており、儀象台はその流れの頂点にあたる。
時刻が来ると、楼閣の窓に木の人形が現れた。ある人形は鐘を鳴らし、ある人形は太鼓を打ち、ある人形は時刻を記した札を掲げた。昼夜を通じて、時の区切りごとに違う人形が出てくる仕掛けで、見る人にも聞く人にも時が分かった。水車の回転は歯車と軸を通じて上の天球儀や観測器にも伝わり、観測器は星を追いかけて向きを変えた。
蘇頌は、この器械の仕組みを細かな図にして一冊の本にまとめた。『新儀象法要』である。全体の姿から歯車や桶の一つひとつまで、60枚を超える図が描かれている。蘇頌がこの本を残したことで、塔が失われた後も、その構造を知ることができる。20世紀に入り、イギリスの科学史家ジョゼフ・ニーダムらがこの本を読み解いて世界に紹介し、水運儀象台は中国の機械技術の高さを示す例として知られるようになった。長野県下諏訪町や台湾の台中には、この本をもとに実物大で復元した塔がある。
塔の命は短かった。1127年、女真の金が開封を落とし、上皇の徽宗と皇帝の欽宗を北へ連れ去った(靖康の変)。金は宮中の宝物や器械とともに儀象台を解体して北の燕京へ運んだが、組み立て直しても、もとのようには動かなかったという。南へ逃れて臨安に都を置いた南宋の朝廷は、蘇頌の子に塔を造り直させようとしたが、果たせなかったと伝えられる。図は残っていても、それを読み、作り、狂いを直せる人がもういなかった。

技術は図面だけでは伝わらない。作った人と、動かし続け、直し続ける人が要る。都が落ち、職人と役人が散ると、技術も散る。漏剋で日本の朝廷が時を告げ始めてから400年あまり、蘇頌の塔は時刻と天の動きを同時に示し、天子の仕事を機械に代わらせようとした。その試みが、ひとつの戦乱で途切れたことも、この塔の歴史の一部である。