できごと

霍光の昌邑王廃位

Huo Guang deposes the Prince of Changyi
BC74年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民匈奴クシャーナ朝スキタイマウリヤ朝サカシャンシュン王国アイヌMin-YueNan-Yueヒンドゥーの諸王国シンハラBC74年長安
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC74年の版図を描いています(14勢力)。

概要

昭帝が21歳で死に、霍光が甥の昌邑王を立てた。即位から27日で1127件の勝手な命令・徴発を出したと数えて廃し、民間で育った皇曾孫を探して宣帝にした。臣下が皇帝を替えた最初になる。宣帝は霍光の車に同乗して「背中に針があるようだ」と言った。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

関わった人(1)

霍光?–BC68年 · 大将軍

本文

BC87年、50年以上帝位にあった漢の武帝が死んだ。晩年の武帝は、巫蠱の獄と呼ばれる呪いの疑いの騒ぎで、皇太子を自殺に追い込んでいた。跡を継いだのは、末の子でまだ8歳の昭帝である。武帝は死の前に、幼い成王を背負って政治を助けた周公の絵を、霍光に与えたと伝えられる。この子を頼む、という意味だった。霍光は、匈奴との戦いで名を上げた霍去病の異母弟で、二十年あまり武帝のそば近くに仕え、一度も過ちが無かったと言われた慎重な人だった。

霍光は大司馬大将軍として、ほかの重臣とともに幼い皇帝を補佐した。BC80年には、同じく後事を託された上官桀や、財政を握った桑弘羊が、武帝の子の燕王と結んで霍光を除こうとしたが、事前に発覚して滅ぼされた。これで朝廷の実権は霍光ひとりに集まる。霍光は武帝の時代の戦争と重い税で疲れた国を休ませる政治を進め、13年にわたって国を動かした。BC74年、昭帝は21歳で、子のないまま死んだ。

霍光
霍光Wikimedia Commons Wang Qi · Public domain

霍光が次の皇帝に選んだのは、武帝の孫で19歳の昌邑王、劉賀だった。ところが劉賀は、即位から27日で帝位を追われる。『漢書』によれば、劉賀は喪の期間に肉を食べ酒を飲み、楽人を呼んで遊び、先帝の宮女と通じたという。即位してからの27日の間に、使者を四方に走らせて出した命令は1127件にのぼった。霍光は重臣たちを集め、皇帝を替えることを諮った。ためらう者がいると、重臣の一人が剣の柄に手をかけ、遅れて答える者は斬る、と迫ったという。

廃位は、皇太后の名で行われた。皇太后は昭帝の皇后で、霍光の外孫にあたる15歳の少女だった。劉賀は皇太后の前に引き出され、罪状を読み上げられて、皇帝の印を解かれた。

本当の理由は、劉賀が昌邑から連れてきた二百人あまりの家臣だったと考えられている。新しい皇帝が自分の側近で朝廷を固めれば、霍光は政治の座を失う。廃位のあと、その家臣たちはほとんどが殺された。刑場に引かれていく途中、彼らは、断つべきときに断たなかったから、かえってその禍を受けるのだ、と叫んだと『漢書』は記す。先に霍光を除こうとして果たせなかった、という意味に読める。劉賀は昌邑に帰され、のちに宣帝によって海昏侯に封じられて、いまの江西省の地で死んだ。2011年、江西省の南昌の近くでその墓が見つかり、大量の金の板や延べ金、10トンを超える銅銭、失われた『論語』の一篇を含むとみられる竹簡などが出て、大きな話題になった(『論語』の成立)。

『論語』の成立に関わる図版:Rongo Analects 02
『論語』の成立Wikimedia Commons Confucius and his disciples, · Public domain

次の皇帝には、思いがけない人が選ばれた。巫蠱の獄で死んだ皇太子の孫で、生まれて数か月で一族とともに獄に入れられた赤子である。獄の役人に守られて生き延び、その後は祖母の実家などで、民間の人として育った。闘鶏や馬を好み、町の暮らしにも通じていたという。霍光はこの18歳の若者を探し出して皇帝に立てた。宣帝である。

宣帝は即位すると、霍光に政治を返されてもこれを断り、何ごともまず霍光に相談してから行うよう命じた。しかし心の中では霍光を恐れていた。即位して高祖の廟に詣でるとき、霍光が同じ車に乗ると、宣帝は背中に植物のとげが刺さっているようだったと『漢書』は書いている。

BC68年に霍光が死ぬと、宣帝は手厚く葬った。だが霍光の一族は、権勢を笠に着てふるまい続けた。霍光の妻は、自分の娘を皇后にするため、宣帝の最初の皇后を医者に毒殺させていたことが、のちに明らかになる。一族は追い詰められて謀反を企て、BC66年、皆殺しにされた。宣帝はのちに、漢の功臣十一人の肖像を宮中の麒麟閣に描かせたとき、霍光を第一に置き、ほかの者は名を記したのに、霍光だけは名を書かず、官職と爵位と「姓は霍氏」とだけ記させた。名を呼ばないことは最大の敬意だったが、一族を滅ぼした皇帝の複雑な思いもそこにはにじむ。

臣下が皇帝を立て、また廃したこの出来事は、後の時代の先例になった。殷の伊尹が王を一時退けた故事と並べて「伊霍の事」と呼ばれ、権臣が皇帝を替えるとき、その正しさを示すために持ち出された。後漢の末に董卓が少帝を廃したときも、この故事が引かれている。忠臣の手本とも、帝位を思いのままにした権臣の始まりとも読める出来事である。

同じ時代のできごと

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