できごと

宋の成立

Founding of the Song
AD960年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民オグズ・テュルク吐蕃遼(契丹)宋ウイグルツングース系の人びとサーマーン朝契丹カルルクマレー系の人びとRashtrakutaプラティーハーラ朝パーラ朝南詔南詔と大理日本Hindu Shahis高麗クメール帝国アイヌBanasSindhチャーハマーナ朝PallavaMultanパガン朝モンの諸国Vallabhiチャンパチョーラ朝アラカンSomvamsisLambakannasAD960年開封
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD960年の版図を描いています(35勢力)。

概要

武人ではなく文官が国を運営する体制になった。経済と技術が大きく伸びる。

場所

開封
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省

関わった人(2)

趙匡胤(宋の太祖)AD927年–AD976年 · 太祖柴栄(後周世宗)AD921年–AD959年 · その皇帝の子から

本文

907年に唐が滅びてから、華北では53年のあいだに五つの王朝が入れ替わった(五代十国)。どの王朝も、節度使と呼ばれる地方の軍の長が、兵に担がれて帝位に就いたものだった。皇帝の地位は、兵の支持を失えばたちまち奪われる。北の契丹(契丹(遼)の建国)は、936年に後晋から長城の南の燕雲十六州を譲られ、華北を見下ろす位置に立っていた。

その流れを変えかけたのが、後周の世宗・柴栄(後周世宗)である。954年に即位すると、軍を立て直して北漢と契丹を破り、南唐からは長江の北の土地を奪った。955年には寺院を整理し、仏像の銅を銭に作り替えた(後周世宗の廃仏)。だが959年、燕雲十六州を取り戻す遠征の途中で病に倒れ、30代の若さで亡くなる。跡を継いだのは、7歳の幼い恭帝だった。

北宋の版図
北宋の版図Wikimedia Commons 玖巧仔 · CC BY 3.0

近衛軍の長として軍の中心にいたのが、趙匡胤(宋の太祖)である。960年の正月、契丹と北漢が攻めてきたという知らせが届き、趙匡胤は軍を率いて都の開封を出た。その夜、都の北の陳橋という宿駅で、将兵たちが酔って眠っていた趙匡胤に、皇帝の着る黄色い衣をかぶせ、天子に推した。これを陳橋の変と呼ぶ。弟の趙光義と側近の趙普が事前に仕組んだとされ、敵が攻めてきたという知らせ自体が偽りだった可能性もある。

趙匡胤は軍を引き返して開封に入り、幼い恭帝から位を譲られる形で即位した。国号を宋とし、開封を都とした。前の皇帝とその一族の柴氏には手厚い待遇を与え、殺さなかった。都に入る兵には略奪を固く禁じたと伝えられる。

宋市場の構造
宋市場の構造Wikimedia Commons Public domain

宋の太祖となった趙匡胤は、自分が兵に担がれて帝位に就いたことをよく知っていた。同じことを、自分の部下がしないとは限らない。961年、彼は兵権を握る功臣たちを宴に招き、酒の席でこう語ったと伝えられる。お前たちに野心が無くても、部下がお前たちに黄色い衣を着せたらどうする、と。功臣たちは翌日、そろって病と称して兵権を返上した。太祖は彼らに広い土地と財産を与えて、悠々と暮らさせた。「杯酒釈兵権」(杯の酒で兵権を解く)と呼ばれる話である。後の時代の書物に見える話で、細部は脚色されているという見方もあるが、太祖が武将から兵権を取り上げたこと自体は確かである。

太祖は、軍を動かす仕組みを作り直した。強い兵は都の禁軍に集めて皇帝の直属とし、地方の節度使からは兵と財政の権限を取り上げて、中央から送った文官に地方を治めさせた。軍の指揮権も細かく分け、一人の武将が大軍を握り続けることのないようにした。そして科挙で選んだ文官を、武官より上に置いた。973年には、皇帝自ら試験を行う殿試が始まったとされる。合格者は皇帝の弟子となり、皇帝に忠誠を尽くす官僚となった(宋の科挙と士大夫)。

北宋銭
北宋銭Wikimedia Commons As6022014 · CC BY 3.0

太祖は南の国々を次々に降し、975年には南唐を滅ぼした。だが976年、統一を目前に急死する。跡を継いだのは、子ではなく弟の趙光義(太宗)だった。その死の夜の様子は謎めいていて、弟による暗殺を疑う話も伝わるが、確かなことは分かっていない。太宗は979年に北漢を滅ぼして中国本土の統一を果たしたが、燕雲十六州を取り戻すことはできなかった。

文官が国を動かす体制は、宋の300年を通じて続いた。唐の後半から五代にかけて繰り返された、武将の反乱による王朝交代は、宋では一度も起きていない。社会は安定し、経済が大きく伸びた。開封は人口100万近い大都市となり、四川では世界で最も早い時期の紙幣が使われた。活字の印刷や羅針盤の航海への利用(宋の活字と羅針盤)もこの時代に進む。人口は12世紀の初めに1億を超えたとされる。

青磁三足壷[注釈 6]
青磁三足壷[注釈 6]Wikimedia Commons Vassil · Public domain

その一方で、宋の軍は弱かった。武将の力をそぐ仕組みは、そのまま軍の力をそぐことにもなった。1004年、宋は契丹と和約を結び、毎年、絹と銀を贈ることで平和を得た(澶淵の盟)。西北の西夏とも同じような約束を交わした。財政の負担を立て直すために、11世紀には王安石が大胆な改革を試みている(王安石の新法)。1127年には、契丹を滅ぼした金(金の建国)の軍が開封を落とし、宋は南へ逃れて臨安(いまの杭州)を都とした。その南宋も、1279年にモンゴルに滅ぼされる。

内側の安定を最優先にした設計は、300年にわたる繁栄をもたらし、同時に外への弱さと引き換えになった。宋の始まりは、その両方の出発点だった。

同じ時代のできごと

カラハン朝のイスラーム受容AD960年頃ブワイフ朝のバグダード入城AD945年トルテカのトゥーラAD950年頃『黄金の牧場』AD947年馮道の儒教経典刊行AD953年後周世宗の廃仏AD955年レヒフェルトの戦いAD955年高麗の科挙AD958年
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