二里頭の宮殿
概要
中国最古級の宮殿の跡。伝説の夏王朝にあたるとする説があるが、文字が出ていないので確かめられない。
場所
34.70°N 112.69°E · 中国・河南省偃師
本文
河南省の洛陽盆地、偃師の二里頭という村の畑の下に、中国最古級の宮殿の跡が眠っていた。見つけたのは歴史学者の徐旭生で、1959年、文献に伝わる夏王朝の都を探す調査の途中だった。目当ての夏の跡を探しに出て、確かに古い大きな遺跡に行き当たった。ここから、半世紀以上続く問いが始まる。
遺跡の広さはおよそ3平方キロに及ぶ。年代は紀元前19世紀ごろから紀元前16世紀ごろまでとされるが、炭素14による測定の見直しで、始まりを紀元前18世紀ごろまで下げる見方も出ている。いくつかの時期に分けられ、最盛期には中心部に城壁で囲まれた宮殿区が置かれた。
宮殿は、版築という工法で土を突き固めた基壇の上に建っていた。一号宮殿の基壇は一万平方メートルほどあり、周りを回廊が囲み、南に門が開く。正面に大きな建物を置き、中庭を囲んで左右対称に配置する形は、のちの中国の宮殿や廟にまでつながっていく。宮殿区の周りには、縦横に走る道路の跡も見つかり、轍の跡も出ている。
工房もあった。とくに目を引くのは青銅器を作る場所で、ここで作られた爵(酒を温めたり注いだりする器)は、中国で見つかっている青銅の容器としては最も古いものの一つになる。土器ではなく、溶かした金属を型に流して器を作る技術は、手間も材料も多く要る。それを祭りや儀礼のための器に注ぎ込めるだけの権力が、ここにはあった。トルコ石の小片を二千枚ほど並べて龍の形を作った副葬品も、貴人の墓から出土している。

二里頭の影響は洛陽盆地の外にも及んだ。ここで作られたのと同じ形の玉器、とくに牙璋と呼ばれる平たい儀礼用の刃は、黄河の上流から長江の流域、さらに南の広東やベトナム北部でも見つかっている。のちに長江上流で栄えた三星堆の青銅器の遺跡からも、よく似た牙璋が出た。二里頭の儀礼のかたちが、何らかの道筋で遠くまで伝わったことを示している。ただ、それが一つの王朝の支配の広がりなのか、威信のある品の模倣にすぎないのかは分からない。
これほどの遺跡が、伝承の夏王朝と時期も場所も重なる。『史記』は、治水に功のあった禹が夏を開き、それが殷(商)に倒されたと書く。その中心は洛陽の周辺にあったと伝えられてきた。二里頭こそ夏の都ではないか、という説が出るのは自然だった。中国が国家事業として行った夏・殷・周の年代を定める研究計画(夏商周断代工程)も、夏をおよそ紀元前21世紀から紀元前16世紀に置き、二里頭をその後半の都とみる立場をとった。
問題は、文字が出ていないことにある。殷については、甲骨文字に刻まれた王の名が、『史記』の殷の王の系譜とほぼ一致した。だから文献に書かれた王朝が実在したことを、出土品で確かめられた(殷の成立)。二里頭には、それにあたるものが無い。土器に刻まれた記号はいくつか見つかっているが、文字と言えるかどうかは分からない。遺跡が当時何と呼ばれていたのか、どんな人々が住み、何という王朝を名乗っていたのかは、出土品からは決められない。

さらに年代の問題が重なる。測定の見直しで二里頭の始まりが下がると、伝承の夏の年代の前半とは重ならなくなる。そこで、二里頭は夏の後半にあたるとする見方のほか、二里頭の後半はすでに殷の初めではないかとする見方もある。二里頭から6キロほど離れたところでは、少し遅れて殷の初めのものとされる城(偃師商城)が築かれており、二つの遺跡の関係も議論の的になっている。
中国の研究者の多くは二里頭を夏と結びつけて考え、欧米の研究者には、文字資料が出るまでは名前を付けずにおくべきだとする慎重な立場が多い。二里頭を「最初の中国」と呼ぶ研究者もいる。王朝の名をどう呼ぶかは別にして、ここで初めて、大きな宮殿と青銅の礼器と、多くの人を動かす権力がひとつの場所にそろった。名前の分からない都が、中国の国家の始まりのかたちを示している。