太武帝の廃仏
概要
道教を国教にした北魏の皇帝が、寺に武器が隠されていたのを口実に、僧を殺し寺を壊し経を焼いた。中国の三武一宗の廃仏の最初。6年後に皇帝が殺され、仏教は戻って、雲岡を掘り始める。
場所
40.09°N 113.29°E · 中国・山西省大同市(北魏の都)
本文
北魏は、鮮卑の拓跋部が華北に建てた王朝である(北魏の建国)。第3代の太武帝拓跋燾は、15歳ほどで即位して征服を重ね、439年に北涼を滅ぼして華北を一つにまとめた(北魏の華北統一)。広い領土を治めるには、漢人の知識人の力が要った。太武帝が重んじたのが、名門出身の漢人官僚の崔浩である。
崔浩は儒教を重んじ、仏教を嫌った。その崔浩が太武帝に引き合わせたのが、嵩山で修行した道士の寇謙之だった。寇謙之は、太上老君から新しい教えを授かったと称し、古い道教の迷信や金銭の授受を改めた「新天師道」を説いた。太武帝はこれを信じ、440年に年号を「太平真君」と改め、442年には自ら道教の壇に登って符籙(道教の免許状)を受けた。以後、北魏の皇帝は即位のたびにこの儀式を行うことになる。

仏教の側には、もともと国家が警戒する理由があった。僧になれば税と兵役を免れるため、寺には人が集まる。444年、太武帝は王公から庶民に至るまで、私的に僧を養うことを禁じる詔を出した。
それまでの北魏は、むしろ仏教と近かった。建国者の道武帝の時代に、僧の法果は、皇帝はいまの世の如来であり、僧が皇帝を拝むのは仏を拝むのと同じだと説いた。南朝では、僧は王者に礼をしなくてよいという議論が続いていたのと対照的に、北朝の仏教ははじめから国家の権威の下に入っていた。太武帝も即位のはじめには高僧を招いて敬っていた。その皇帝が仏教を捨てたことに、寇謙之と崔浩の影響の大きさが表れている。
445年、関中で蓋呉という人物が大規模な反乱を起こした。翌446年、太武帝は鎮圧のために長安に入り、ある寺に立ち寄った。従者が僧房に入ると、弓矢や盾がしまわれていた。反乱軍と通じているのではないかと疑って調べさせると、酒を造る道具や、地方の役人や富豪から預かった大量の財物が見つかり、さらに地下の部屋に女性を隠していたと『魏書』の「釈老志」は書く。崔浩は、これを機に仏教を根こそぎにするよう勧めた。
その年の3月、詔が出た。長安の僧は皆殺しにし、仏像を壊し、経典を焼け。全国でも同じようにせよ。のちに「三武一宗の法難」と呼ばれる、中国の仏教弾圧の最初である。意外なことに、寇謙之はこの徹底した弾圧に反対し、崔浩と言い争ったと伝えられる。また、仏教を信じていた皇太子の拓跋晃は、詔の公布をわざと遅らせた。そのあいだに各地の僧の多くが逃げ、仏像や経典が隠された。それでも、寺や塔は壊され、逃げ遅れた僧は殺された。

弾圧を主導した者たちの最期は暗い。寇謙之は448年に死んだ。崔浩は、北魏の国史の編纂を任され、それを石に刻んで都の大路に立てたが、拓跋氏の祖先の素朴な姿を隠さずに書いたことが鮮卑の貴族の怒りを買い、450年に一族もろとも処刑された。姻戚の名族までが巻き添えになった。皇太子の晃は451年に父との不和の中で死に、翌452年、太武帝は宦官の宗愛に殺された。
452年に即位した孫の文成帝は、その年のうちに仏教の復興を許した。やがて僧の曇曜が、都の平城の西の崖に巨大な石窟を掘ることを願い出て、460年に工事が始まった(雲岡石窟の造営)。最初に掘られた五つの大仏は、北魏の歴代の皇帝をかたどったものだと言われる。皇帝を仏と重ねることで、仏教は国家の内側に取り込まれた。廃仏ののちの仏教は、王朝を守る宗教として、以前よりもいっそう国家と結びついた。
「三武一宗」は、北魏の太武帝、北周の廃仏の武帝、唐の武宗の会昌の廃仏、後周の世宗の後周世宗の廃仏を指す。どの弾圧にも、寺院が土地と財と人を抱えすぎ、国家の税と兵の基盤を脅かしていたという事情が共通している。そのうえで太武帝の場合には、道教への傾倒と、崔浩という一人の官僚の思想が強く働いていた。