できごと

呉楚七国の乱

Rebellion of the Seven States
BC154年
重要度 3
BC154年

概要

諸侯王が削封に反発して挙兵したが3か月で鎮圧された。以後、権力は中央へ集まる。

本文

秦は中国を統一すると(秦の中国統一)、全土を郡と県に分け、中央から役人を送って治めた。だが秦は15年で崩れた。紀元前202年に漢を建てた劉邦は、秦の失敗を見て、都の周りは郡県で直接治め、遠い東の地には王を置いて治めさせる、郡国制という折衷のやり方をとった(漢の成立)。

初め王に任じられたのは、劉邦とともに戦った功臣たちだった。劉邦は彼らを次々と謀反の罪で滅ぼし、代わりに自分の兄弟や子、甥を王に立てた。同じ劉氏の一族なら背かないだろう、という考えである。王たちは広い領地を持ち、自分で役人を任命し、税を取り、軍を持つことができた。

鉄兜(西漢時代)
鉄兜(西漢時代)Wikimedia Commons Flickr user Gary Todd · CC0

それから数十年がたつと、王たちは皇帝との血のつながりが遠くなり、それぞれの国で力を蓄えた。中でも豊かだったのが、長江の下流を治めた呉王の劉濞である。劉濞は劉邦の甥で、領内の銅山から銅を掘って銭を鋳造し、海の水を煮て塩を作った。その利益で国が富んだため、民から税をほとんど取らず、他の国から逃げてきた人も受け入れたという。劉濞には漢の朝廷への恨みもあった。若い頃、都に来ていた息子が、のちの景帝となる皇太子と双六の勝負で争い、皇太子に盤で打たれて死んでいた。劉濞はそれ以来、病と称して都へ挨拶に出向かなかった。

文帝の時代(文景の治)には、すでに若い学者の賈誼が、王の国を小さく分けて力を削ぐべきだと説いていた。紀元前157年に景帝が即位すると、側近の鼂錯がこの考えを強く押し進めた。鼂錯は、王の領地を削れば反乱を起こすだろうが、削らなくてもいずれ反乱を起こす、早く削ればその害は小さい、と主張した。朝廷は楚や趙などの王の罪を問うて領地の一部を取り上げ、続いて呉の領地も削ることを決めた。

紀元前154年の正月、劉濞は兵を挙げた。楚・趙・膠西・膠東・菑川・済南の王がこれに加わり、七つの国の連合軍となった。反乱の名目は、天子の側にいる悪臣の鼂錯を除く、というものだった。皇帝そのものに背くのではなく、皇帝を惑わす者を取り除くという形をとったのである。劉濞は国中の14歳から62歳までの男を動員し、20万を超える兵を集めたという。

驚いた景帝は、鼂錯と対立していた袁盎の進言を聞き入れ、鼂錯を殺せば王たちは兵を引くだろうと考えた。鼂錯は朝廷に呼び出されると思って朝服を着て出たが、そのまま都の市場に引き出されて斬られた。だが、反乱は止まらなかった。呉王は使者に対し、自分はすでに東の皇帝であると答えたと伝えられる。鼂錯の死は、名目にすぎなかったことが明らかになった。

鎮圧の指揮をとったのは、将軍の周亜夫である。周亜夫は呉と楚の大軍と正面から戦わず、景帝の弟が治める梁の国に敵を引きつけさせ、自らは守りを固めて動かなかった。そのあいだに騎兵を送って、呉と楚の軍の食糧の補給路を断った。梁の都は激しい攻撃に耐え、呉と楚の兵は飢えて崩れた。劉濞は南の東越へ逃げたが、漢の働きかけを受けた東越の人々に殺された。ほかの王たちも敗れて自殺するか殺された。挙兵からおよそ3か月で、反乱はすべて鎮められた。

乱のあと、漢の朝廷は王たちの力を大きく削った。王が自分で役人を任命する権利を取り上げ、国の政治は中央から送られた役人が行うことになった。王は領地から上がる税の一部を受け取るだけの存在になった。さらに漢の武帝の時代には、王の領地を嫡子だけでなく他の子どもたちにも分けて継がせることが命じられ、王の国は代を重ねるごとに小さくなっていった。

呉楚七国の乱を境に、漢は名目だけでなく実際に皇帝が全土を治める国になった。この中央集権の土台の上で、武帝は匈奴への長い戦争や西域への進出(張騫の西域派遣)に乗り出すことができた。皮肉なことに、その道を開いた鼂錯自身は、反乱を鎮めるための犠牲にされた。鼂錯の策そのものは、乱のあと形を変えて実行され、漢の土台になった。

同じ時代のできごと

ピュドナの戦いBC168年6月22日マカバイの反乱BC167年ミリンダ王の問いBC150年頃カルネアデスのローマ訪問BC155年コリントス破壊BC146年カルタゴ滅亡BC146年パルティアのセレウキア占領BC141年ポリュビオス『歴史』BC140年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC154年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →