鄭成功の台湾
概要
オランダを追い出し、明の残党が海の政権を築いた。20年あまりで清に降る。
場所
23.00°N 120.23°E · 台湾
関わった人(1)
鄭成功AD1624年8月27日–AD1662年6月23日 · 当人本文
鄭成功は1624年、肥前の平戸で生まれた。父の鄭芝龍は、東シナ海で船団を率いた海商であり、海賊の頭目でもあった。母は平戸の日本人女性、田川氏である。幼い名は福松といい、7歳まで平戸で育った後、父のもとへ渡った。父はやがて明の朝廷に帰順して官職を得ており、息子に科挙の道を歩ませようと南京で学ばせた。
1644年、北京が反乱軍に落ちて明が滅び、清が長城を越えて入ってくる(清の中国支配)。南へ逃れた明の皇族が各地で亡命政権を立てた。福州で即位した隆武帝は、若い鄭森を気に入り、皇帝の姓である「朱」を与えた。そこから彼は「国姓爺」と呼ばれる。ヨーロッパの記録にあるコクシンガの名は、その福建語の読みから来ている。

1646年、父は清に降った。母は清軍に攻められた町で死んでいる。自害したと伝えられる。鄭成功は父と道を分け、明の再興を掲げて戦い続けることを選んだ。孔子廟で儒者の衣を焼き、武人として生きると誓ったという話が伝わるが、後の脚色も含まれるとされる。
彼を支えたのは海の交易だった。厦門と金門を拠点に、日本、東南アジアとの貿易で軍資金を得た。徳川幕府にも援軍を求めたが、鎖国の完成へ向かう幕府は兵を出さなかった。1659年、大船団で長江をさかのぼって南京を囲んだが、清軍の反撃で大敗する。清は沿海の住民を内陸へ移す命令を出して、鄭氏を海の上で干上がらせようとした。

大陸での足場を失った鄭成功が目を向けたのが、対岸の台湾だった。台湾南部は1620年代からネーデルラント連邦共和国の東インド会社が押さえ、ゼーランディア城を拠点に砂糖と鹿皮の交易を営んでいた。会社の通訳だった人物が台湾の地図と内情を伝えたとされる。
1661年4月、鄭成功は数万の兵と数百隻の船で台湾へ渡った。対岸のプロヴィンティア城はすぐに降ったが、ゼーランディア城は持ちこたえた。包囲は9か月に及び、オランダの援軍も失敗に終わる。1662年2月、長官コイエットは降伏し、城を明け渡して去った。ヨーロッパの勢力がアジアの勢力に拠点を奪われた例として、よく引かれる。

包囲のあいだ、鄭成功は捕らえたオランダ人の牧師ハンブルクを城へ送り、降伏を勧めさせた。牧師は城内の人々に降伏するなと励まして戻り、のちに処刑されたと伝えられる。この話はオランダで悲劇として語り継がれ、18世紀には劇にもなった。
鄭成功はその年の6月、満37歳で急死した。病死とされるが、詳しいことは分からない。政権は子の鄭経、孫の鄭克塽と3代続いた。台湾に役所を置き、兵に土地を開かせ、大陸から人を呼び寄せた。漢人による台湾開拓が本格的に進むのは、この時代からになる。

1683年、清の康熙帝は、かつて鄭氏の部将だった施琅に艦隊を率いさせ、澎湖諸島で鄭氏の水軍を破った。鄭克塽は降伏し、翌年台湾は清の福建省に組み込まれた。オランダを追い出してから20年あまりだった。
鄭経は大陸への望みを捨てなかった。1673年に清の南部で三藩の乱が起きると、これに呼応して福建の沿岸へ兵を出している。台湾の鄭氏政権は、日本の長崎や東南アジアとの交易で暮らしを立てる海の国であり続けたが、乱が鎮まると、清は全力を海へ向けることができるようになった。

同じ人物が、三つの場所で別々に記憶されている。台湾では開拓の祖として祀られ、台南には彼を祀る廟がある。中国では、外国の勢力を追い出した民族の英雄とされる。日本では、近松門左衛門が1715年に人形浄瑠璃『国性爺合戦』に書き、17か月続く大当たりになった。日本人の母を持つ英雄として語られ、のちに日本が台湾を支配した時代には、そのことが統治に利用されもした。