唐の成立
概要
長安は人口100万を超える国際都市になり、東アジアの制度と文化の手本になった。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
唐の太宗AD598年–AD649年 · 基礎を固めた本文
唐は、隋の崩壊の中から生まれた。隋の中国再統一で300年近い分裂を終わらせた隋は、大運河を掘り、科挙を始め、律令と都城を整えた。だが2代目の煬帝は、612年から3度にわたって高句麗に大軍を送り、いずれも失敗する。運河の工事と遠征の徴発に耐えかねた農民が各地で蜂起し、地方の有力者も次々に兵を挙げた。
その一人が、太原を守っていた李淵である。617年に挙兵して長安に入り、煬帝の孫を皇帝に立てて実権を握った。翌618年、煬帝が江都(いまの揚州)で近臣に殺されると、李淵は譲位を受けて即位し、国号を唐とした。これが高祖である。ただし、この時点で唐は群雄の一つにすぎず、各地の勢力を平らげるのに数年を要した。その戦いで最も働いたのが、次男の李世民だった。

挙兵にあたって、李淵は北方の強国である東突厥に下手に出て、馬と兵の援助を受けたとされる。のちに中国の皇帝として突厥を服属させる唐が、出発点では突厥の顔色をうかがっていたことになる。621年、李世民は洛陽に拠る王世充と、その救援に来た河北の竇建徳を、虎牢関の戦いで続けて破った。群雄のうち最大の二つが一度に片付き、唐の天下はここでほぼ定まった。
626年、李世民は長安の宮城の北門である玄武門で、兄の皇太子李建成と弟の李元吉を待ち伏せて殺した。玄武門の変である。高祖は間もなく位を譲り、李世民が即位した。2代皇帝の唐の太宗である。兄弟を殺して父を退かせた即位は、後々まで太宗の負い目になったとされ、その治世の記録には手が入っているという見方もある。

太宗の治世は、年号をとって「貞観の治」と呼ばれる。家臣の魏徴が200回以上諫めたと伝えられ、太宗がそれを聞き入れた問答は、のちに『貞観政要』にまとめられた。この書は日本でも帝王学の教科書として読まれ、徳川家康も好んだという。630年には北方の東突厥を破り、遊牧民の君長たちから「天可汗(てんかがん)」の称号を受けた。中国の皇帝であると同時に、草原の盟主でもあるという立場になる。
641年には、チベット高原に興った吐蕃の王ソンツェン・ガンポのもとへ、皇族の娘である文成公主を嫁がせた。戦うだけでなく、婚姻で周辺の王を親族に組み込むやり方である。晩年の太宗は、隋を傾けた高句麗遠征に自ら乗り出して645年に兵を退き、後継ぎをめぐる皇子たちの争いにも悩まされた。649年に死去し、皇子の李治が即位する。高宗であり、その皇后がのちの則天武后になる。

制度の多くは、隋のものを引き継いで磨いたものだった。律・令・格・式という法典、中書・門下・尚書の三省と六部、土地を配る均田制と、それに対応する租庸調の税、農民を兵とする府兵制。官僚を試験で選ぶ科挙も、唐の時代に整っていく。こうした一式が、周辺の国々にとって「国家とはこう作るもの」という手本になった。日本の大化の改新以後の律令国家も、新羅も、この型を写している。
都の長安は、隋の大興城をそのまま使った。東西およそ9.7キロ、南北およそ8.6キロの城壁の中を、碁盤の目の街路が100余りの坊に区切り、東市と西市に各地の品が集まった。宮城の正門から南へまっすぐ延びる朱雀大街は、幅が150メートル前後あったとされ、通りというより広場に近い。人口は100万前後と言われるが、推計には幅がある。それでも、同じ時代に世界でこれほどの都市はほとんど無かった。平城京遷都も平安京遷都も、この長安を縮めて写している。

外国人が多い都だった。ソグド人の商人、ペルシア人、アラブ人、突厥の人々、新羅や日本からの留学生と僧。遣唐使は630年に始まり、阿倍仲麻呂のように唐の官僚になって一生を終えた者もいる。ゾロアスター教、マニ教、景教と呼ばれたネストリウス派のキリスト教の寺院が建ち、のちにはイスラームの礼拝所も置かれた。781年に建てられた「大秦景教流行中国碑」が、景教の布教の跡を今に伝えている。
外へ開いていた理由の一つに、皇室そのものの出自を挙げる見方がある。李氏は漢人の名門を名乗ったが、高祖の母は鮮卑系の独孤氏で、太宗の母もやはり北方系の家の出とされる。隋も唐も、北方の遊牧系の人々と漢人が混ざり合った北朝の支配層から出ている。自分たちがそもそも混ざっていたから、異なる者を受け入れることに抵抗が少なかった、という説明である。

唐は300年近く続いた。玄奘の西域行では、玄奘が国禁を破ってインドへ向かい、経典を持ち帰った。7世紀末には則天武后の即位で、中国史上ただ一人の女帝が立つ。8世紀の玄宗の時代には唐詩の頂点で、李白や杜甫が詩を残した。
その開かれ方が変わる転機が、755年に始まる安史の乱である。反乱を起こした安禄山はソグド系と突厥系の血を引く武将で、乱ののち、外国人や外来の宗教への警戒が強まった。845年には仏教とともに外来の諸宗教が弾圧される。唐は唐の滅亡に至るまで名目上は続くが、国際都市としての長安の輝きは、この乱の前がいちばん大きかった。