安史の乱
概要
唐の絶頂を折った大反乱。以後、中央の力は落ち、地方の節度使が実権を握る。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
玄宗AD685年–AD762年 · 皇帝本文
8世紀の前半、唐は絶頂にあった。玄宗の治世の前半は「開元の治」と呼ばれ(開元の治)、都の長安は人口100万ともいわれる世界有数の大都市となった。西域を通って多くの商人や僧が行き交い、李白や杜甫が詩を詠んだ(唐詩の頂点)。
その繁栄の陰で、国の守りの仕組みが変わっていた。唐の初めは、農民に土地を与える代わりに兵役を課す府兵制で軍を集めていたが、土地の配分が行き詰まり、兵役を逃れる者が増えた。代わって、辺境には職業の兵士を雇った大きな軍団が置かれ、それを率いる節度使が、軍事だけでなく財政や行政まで握るようになった。玄宗の晩年には、長く宰相を務めた李林甫が、漢人の有力者が節度使から宰相に上がって自分の地位を脅かすのを恐れ、異民族出身の武将を節度使に多く登用したとされる。

その一人が、安禄山である。営州(いまの遼寧省)の生まれで、父はソグド人、母は突厥の人だったと伝えられる。ソグド人は中央アジアの商業の民で、唐の各地に広く住んでいた(ソグド商人のネットワーク)。安禄山はいくつもの言葉を話し、国境の市場の仲買人から身を起こして武将となった。玄宗の信任を得て、北東の三つの節度使を兼ね、唐の辺境の兵力の3分の1ほどを握るまでになった。
安禄山は大きな体で、腹が膝まで垂れていたといわれる。それでいて玄宗の前では、くるくると回る西域の踊りを見事に舞ってみせたという。玄宗の寵愛を受けていた楊貴妃の養子になり、彼女の宮殿にしばしば出入りしたという話も伝わるが、どこまでが事実かははっきりしない。

楊貴妃の一族の楊国忠が宰相になると、安禄山と楊国忠は激しく対立した。楊国忠は安禄山が反乱を企てていると玄宗に繰り返し訴えたが、玄宗は聞き入れなかった。755年の冬、安禄山は楊国忠を討つことを名目に、本拠地の范陽(いまの北京のあたり)で兵を挙げた。
長い平和に慣れた唐の内地には、まともな軍がいなかった。反乱軍はひと月ほどで東の都・洛陽を落とし、翌756年の正月、安禄山は大燕の皇帝を名乗った。唐の側は長安の東の関所・潼関を固めて持ちこたえていたが、楊国忠らの意見で守将が無理に打って出させられ、大敗した。

玄宗は長安を捨て、西南の蜀(いまの四川)へ逃れた。その途中、長安の西の馬嵬という宿駅で、従っていた兵たちが動かなくなった。兵たちは、この災いを招いたのは楊国忠だとして彼を殺し、さらに楊貴妃の死を求めた。玄宗はやむなく、楊貴妃に死を与えた。この悲劇は、のちに白居易の長編の詩「長恨歌」に歌われる。皇太子は北西の霊武で即位し(粛宗)、玄宗は位を退いた。
長安を占領された唐は、郭子儀らの将軍を中心に反撃を始め、北方の遊牧国家ウイグル(ウイグル可汗国)から援軍を借りた。その間に反乱軍の側でも内紛が起き、757年、安禄山は息子の安慶緒に殺された。この年、唐はウイグルの騎兵の力を借りて長安と洛陽を取り戻したが、洛陽ではウイグル兵に略奪を許すことが援軍の条件だった。

戦いはそれで終わらなかった。安禄山の盟友だった史思明が再び背き、安慶緒を殺して自ら皇帝を名乗った。その史思明もまた息子の史朝義に殺される。763年、追いつめられた史朝義が自ら命を絶って、8年にわたった反乱はようやく終わった。「安史の乱」という名は、安禄山と史思明の二人の名から取られている。
乱の間、長安に閉じ込められていた杜甫は、荒れ果てた都を見て「国破れて山河在り」と詠んだ。唐の戸籍に記された人口は、乱の前の754年におよそ5300万だったものが、乱の最中の760年にはおよそ1700万に減っている。ただしこれは、それだけの人が死んだということではなく、戦乱で国が人々を戸籍に把握できなくなった分が大きいと考えられている。死者の数は分かっていない。

乱を終わらせるために、唐は降伏した反乱軍の武将たちを、そのまま河北の節度使に任じた。彼らは自分の領地で兵を養い、税を握り、地位を子に継がせて、半ば独立した国のように振る舞った。乱を鎮めるために内地にも置かれた節度使も、同じように力をつけていく。西では、乱の間に西域の兵を引き揚げたため、チベットの吐蕃が勢力を広げ、763年には一時長安を占領した。
唐はこの後も150年近く続く。780年には、土地と資産に応じて年に二度税を取る両税法を始め(両税法)、塩の専売で財政を立て直した。だが中央の力がかつての姿に戻ることはなかった。875年に始まる黄巣の乱(黄巣の乱)で国は大きく傾き、907年、節度使の一人に帝位を奪われて唐は滅びる(唐の滅亡)。