できごと

秦の中国統一

Qin unification of China
BC221年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民マウリヤ朝秦周の諸侯国ヒンドゥーの諸王国と共和国シャンシュン王国秦アイヌヒンドゥーの諸王国シンハラBC221年咸陽
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC221年の版図を描いています(11勢力)。

概要

戦国の争いを制して中国が初めてひとつになった。度量衡・文字・車軌が揃えられる。

場所

咸陽
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省

関わった人(1)

始皇帝BC259年–BC210年 · 当人

本文

紀元前8世紀に周の王が都を東へ移してから、中国は長い分裂の時代に入った。はじめは周の王を名目上の主として諸侯が並び立つ春秋時代、やがて大国が互いを滅ぼし合う戦国時代になる。紀元前5世紀の終わりには、大国の晋が家臣の三家に分割され、七つの大国が覇を競う形ができあがった。秦は、その中でいちばん西の辺境にあった。東の国々からは、半ば異民族のような田舎の国と見られていた。

秦が勝てたのは、商鞅が敷いた仕組みのためとされる。紀元前4世紀の半ば、秦の孝公は、他国から来た商鞅を用いて国の仕組みを根本から作り変えた(商鞅の変法)。身分でなく戦功で位を与え、敵の首を取った数で爵位を上げた。家を細かく分けて税と兵を取り、5軒、10軒を一組にして、罪を犯した者が出れば組全体を罰する連座で相互に監視させた。地方を国が直接治める県を置き、ますや物差しをそろえた。商鞅自身は、後ろ盾の孝公が死ぬと、恨みを買っていた貴族たちに追われ、車裂きの刑で殺された。だが、仕組みは残った。

李牧。秦の侵攻を撃退したのは楚の項燕と李牧の二人のみ。
李牧。秦の侵攻を撃退したのは楚の項燕と李牧の二人のみ。Wikimedia Commons anonymous · Public domain

秦はそれから100年あまりかけて、東の国々を少しずつ削っていった。紀元前260年の長平の戦いでは趙の大軍を破り、降った兵40万を生き埋めにしたと『史記』は伝える。数は誇張を含むとみられるが、遺跡からは大量の人骨が見つかっている。

紀元前247年、13歳の政が秦王に即いた。のちの始皇帝である。はじめは大商人出身の宰相呂不韋が実権を握ったが、成人した政は呂不韋を退け、法家の李斯を重用して自ら国を動かした。紀元前230年に韓を滅ぼすと、趙、魏、楚、燕と次々に倒していく。紀元前227年には、燕の太子に送り込まれた刺客荊軻が、献上品の地図に匕首を隠して秦王に迫り、殿上を追い回したが、あと一歩で討ち取られた(荊軻の秦王暗殺未遂)。紀元前221年、最後に残った斉が戦わずに降った。周の東遷から数えて、550年続いた分裂を、10年で終わらせた。

逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠石室。
逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠石室。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

政は、それまでの「王」に代わる新しい称号を作らせた。伝説の聖なる王たちの呼び名を組み合わせた「皇帝」である。自らを最初の皇帝、始皇帝と称し、子孫は二世、三世と数えて万世に伝えると宣言した。臣下の中には、皇帝の子弟を各地の王に封じるべきだという意見もあったが、李斯は、周が封建によって結局は分裂したことを挙げて反対した。始皇帝は全国を郡と県に分け、中央から役人を送って治めさせた。始皇帝の帝国は、皇帝のもとで役人が全国を直接治める国になった。

統一の後にやったのは、まず規格を揃えることだった。文字、貨幣、度量衡、車輪の幅。国ごとにばらばらだった字の形を、秦の字体に統一した。円い形の真ん中に四角い穴を開けた銅銭を、全国で使わせた。長さ、容量、重さの基準を定め、その基準を刻んだ升や分銅を各地に配った。車輪の幅を揃えると轍が共通になり、道を走れる。帝国の背骨は、この揃えるという作業でできている。

始皇帝
始皇帝Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

始皇帝は、都の咸陽から各地へ延びる道を整え、北の匈奴に備えて将軍蒙恬に大軍を与え、戦国の諸国がそれぞれ築いていた長城をつなぎ合わせた。南では、いまの広東や広西まで兵を進めた。皇帝自身も5回にわたって全国を巡り、各地の山に自らの功績を刻んだ石碑を立てた。

同時に、思想を揃えようとした。焚書坑儒と呼ばれる(焚書坑儒)。紀元前213年、李斯の進言で、秦の記録と医薬、占い、農業の書を除いて、民間にある歴史や詩、諸子の書物を焼かせた。古を引いて今を批判することを禁じるためだった。翌年には、不老不死の薬を探すと言って皇帝を欺いた方士たちに怒り、学者ら460人あまりを咸陽で生き埋めにしたとされる。ただしその規模は、後の漢代の史書によるところが大きく、どこまでが実際かは議論がある。秦を倒した漢にとって、秦を暴虐の国として描く理由があったからである。

秦の陶製の馬と馬飼い(兵馬俑)
秦の陶製の馬と馬飼い(兵馬俑)Wikimedia Commons JoJan · CC BY 3.0

秦の法の実際の姿は、20世紀になって土の中から現れた。1975年、湖北省の睡虎地の墓から、秦の役人が書き写した法律の竹簡が大量に見つかった。そこには、刑罰だけでなく、倉庫の管理や役人の仕事の手順、牛馬の扱いまで、細かな決まりが書かれていた。秦は、厳しいだけでなく、驚くほど事務の行き届いた国だった。

紀元前210年、始皇帝は5回目の巡行の途中で病に倒れて死んだ。50歳だった。側近の宦官趙高と李斯は、死を隠したまま、長男の扶蘇に自害を命じる偽の詔を作り、末子の胡亥を二世皇帝に立てた。翌年、陳勝・呉広の乱が起き、反乱は全国に広がった。紀元前206年、三世の子嬰が劉邦に降り、秦は滅んだ。

始皇帝の肖像(19世紀の絵)
始皇帝Wikimedia Commons Unknown (18??–18??) · Public domain

15年で倒れた。急ぎすぎたためとされる。長城や宮殿や陵墓の造営に、何十万もの人々が駆り出された。始皇帝の陵の近くで1974年に見つかった兵馬俑は、その労役の規模の一端を伝えている。だが、揃えた規格のほうは2000年残った。秦を倒した漢は、秦の郡県制と法の多くを引き継いだ(漢の成立)。中国を指す西洋の呼び名「チャイナ」も、秦の名に由来するという説が有力である。

出典(7)

司馬遷 『史記』秦始皇本紀
ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン
ジャレド・ダイアモンド(倉骨彰 訳) 『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』第16章 中国はいかにして中国になったのか
ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第II部 諸文明間の平衡状態(BC500〜AD1500年)
デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史 訳) 『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』第10章(国家の三つの原理)
デヴィッド・グレーバー(酒井隆史 訳) 『負債論 貨幣と暴力の5000年』第9章(枢軸時代。貨幣と軍隊と奴隷制が同時に現れる)
ジョゼフ・ニーダム(東畑精一、藪内清 監修) 『中国の科学と文明』第2巻(思想史。技術を支えた考え方)

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