人物

フビライ・ハン

Kublai Khan
AD1215年 – AD1294年(享年79・推定)
元重要度 4

概要

中国を征服して元を建てた。二度日本へ兵を送り、二度とも失敗する。

所属

元

関わったできごと(7)

モンゴル帝国の拡大1206年 · 中国征服襄陽の攻囲AD1268年 · 皇帝大元の国号AD1271年 · 建国元寇1274年 · 元側文永の役AD1274年11月19日(文永11年10月20日) · 送った弘安の役AD1281年7月(弘安4年閏7月) · 送った授時暦AD1281年 · 命じた

本文

フビライ(クビライ)は1215年、チンギス・ハンの末子トルイの四男として生まれた。母のソルコクタニ・ベキは、モンゴル高原の有力部族ケレイトの王族の出で、ネストリウス派のキリスト教徒だった。夫の死後、彼女は息子たちを守り育て、長男モンケを大ハンの位に就ける工作の中心になった。息子たちに、征服した土地の民を慈しみ、その文化を学ぶよう教えたといわれる。

フビライ・ハンの肖像(元代の帝王図冊)
フビライ・ハンの肖像(元代の帝王図冊)Wikimedia Commons Araniko · Public domain

1251年、兄のモンケが大ハンになると、フビライは中国の北部の統治を任された。彼は劉秉忠をはじめとする漢人の学者や僧を周りに集め、中国の統治のやり方を学んだ。1253年には、いまの雲南にあった大理国を遠征で降した。1256年には、内モンゴルに開平府という新しい町を築いた。のちの上都である。

1259年、南宋への総攻撃の最中に、モンケが四川の陣中で死んだ。長江の中流で南宋の城を囲んでいたフビライは、南宋の宰相と急いで和議を結んで北へ戻った。翌1260年、彼は開平で大ハンの位に就いた。ところがモンゴルの本拠カラコルムでは、留守を預かっていた末弟のアリクブケも大ハンを名乗った。兄弟の争いは4年続き、フビライが勝った。だがこの争いを機に、西方のモンゴル諸国は大ハンに従わなくなり、中央アジアではオゴデイ家のハイドゥが長く反抗を続けた。チンギスの帝国は、フビライの国を宗主とする、緩やかな連合へと変わっていった。

モンゴル国政府宮殿 正面向かって右に鎮座するクビライ像
モンゴル国政府宮殿 正面向かって右に鎮座するクビライ像Wikimedia Commons A. Omer Karamollaoglu from Ankara, Turkey · CC BY 2.0

フビライは、中国風の王朝の形を整えた。1271年、国号を、易経の言葉から取って大元と定めた(大元の国号)。翌年には、旧金の都の近くに築いた新しい都、大都(いまの北京)を首都とした。夏は上都、冬は大都で過ごし、遊牧の君主と中国の皇帝の二つの顔を持った。

南宋の征服は、長い攻城戦から始まった。長江の支流、漢水のほとりの要衝である襄陽と樊城を、元の軍は1268年から5年かけて包囲し、西アジアから招いた技術者の作った大型の投石機で、ようやく落とした。1276年には南宋の都臨安(いまの杭州)が戦わずに降り、1279年、南宋の最後の抵抗は広東の海上、崖山で潰えた(崖山の戦い)。唐の滅亡以来370年ぶりに、中国の全土が一つの王朝のもとに入った。それを果たしたのは、遊牧の民の王朝だった。

崖山の戦いに関わる図版:Jingmen002
崖山の戦いWikimedia Commons (Long night without wind) 长夜无风 · CC BY 3.0

元の政治では、モンゴル人が上に立ち、中央アジアや西アジアから来た色目人と呼ばれる人々が財務などで重く用いられた。旧金の領域の人々は漢人、旧南宋の人々は南人と呼ばれ、要職から遠ざけられることが多かった。こうした区別が、制度としてどこまで厳格だったのかについては、研究者の間で見方が分かれている。官吏登用の試験である科挙は、フビライの時代には行われず、再開されたのは彼の死から20年余り後だった。一方で、紙幣を全国で通用させ、大運河を整え、大都と江南を結ぶ海の運送を開いて、ユーラシアの東西を結ぶ交易を盛んにした。ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロが仕えたと語るのは、この宮廷である。

フビライは周辺の国々にも服属を求めた。日本には1266年から使者を送ったが、鎌倉幕府は応じなかった。1274年と1281年の2度、元は高麗の兵も加えた大軍を九州へ送り(元寇)、2度とも失敗した。2度目は、旧南宋の兵を中心とする10万を超える軍が加わったが、暴風雨で多くの船を失った。フビライは3度目の遠征を計画したが、ほかの戦争に追われて、1286年に取りやめた。南では、ベトナムの陳朝に3度攻め込み、1288年には白藤江で艦隊を失った(白藤江の戦い(元寇撃退))。チャンパやビルマにも兵を送り、1292年にはジャワへ艦隊を送った。ジャワでは現地の勢力に利用されたうえで追い出され、その勢力がマジャパヒト王国を開いた(マジャパヒト王国の隆盛)。海の向こうへの遠征は、どれも思うような成果を上げなかった。

白藤江の戦い(元寇撃退)に関わる図版:Battle of Bach Dang river
白藤江の戦い(元寇撃退)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

フビライは宗教に寛容で、とりわけチベット仏教を重んじた。チベットのサキャ派の高僧パクパを帝師として迎え、仏教界を束ねさせた。パクパは皇帝の命で新しい文字を作った。チベット文字をもとにしたパスパ文字である。帝国の多くの言葉を一つの文字で書き表そうとする試みで、公文書や印章、牌子(通行証)などに使われたが、広く普及することはなく、元の滅亡とともに使われなくなった。

晩年のフビライは、深く愛した皇后チャブイと、跡継ぎと決めていた皇太子チンキムに相次いで先立たれた。酒と美食で体は肥え、痛風に苦しんだと伝えられる。1294年、大都で死んだ。数えで80歳だった。モンゴル高原の、チンギスと同じ秘密の場所に葬られたとされ、墓の場所は今も分かっていない。元の王朝は、その後70年余りで、紅巾の乱の中から立った明に追われて北へ退いた(元)。

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