人物

柴栄(後周世宗)

Chai Rong
AD921年 – AD959年(享年38・推定)
後周重要度 4

概要

茶商人。郭威の妻の甥で養子。954年に即位して高平で北漢を破り、後蜀から4州、南唐から淮南14州、遼から燕雲の3州。廃仏。汴河を浚った。「10年で天下を平らげ、10年で民を養い、10年で太平を」。5年半で死んだ。「五代第一の名君」。

関わったできごと(2)

後周世宗の廃仏AD955年 · 皇帝宋の成立AD960年 · その皇帝の子から

本文

柴栄は、五代の最後の王朝、後周の第二代皇帝で、廟号を取って世宗と呼ばれる。在位はわずか5年半だったが、その間に軍を立て直し、周りの国々から次々に領土を奪い、分裂していた中国を再び一つにする道筋をつけた。その道を最後まで歩いたのは、彼が育てた部下の趙匡胤である。後世の史家は、五代の皇帝の中で第一の名君と評している。

柴栄(後周世宗)の肖像
柴栄(後周世宗)の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

921年、河北の邢州に生まれた。父は柴守礼という地方の有力者で、叔母の柴氏が、のちに後周を建てる軍人の郭威に嫁いでいた。郭威夫妻には子がなく、柴栄は幼いころから叔母のもとで育ち、郭威の養子となった。そのため郭栄と名乗った時期もある。若いころには家計を助けるため、長江中流の江陵まで出かけて茶を商ったと伝えられる。皇帝になった人物としては珍しい経歴である。

五代は、唐が滅んだ907年から半世紀あまり、華北で短命の王朝が五つ入れ替わった時代である(五代十国)。皇帝はたいてい軍人で、部下の兵に担がれて帝位につき、また部下に倒された。北には契丹の遼(契丹(遼)の建国)があり、後晋の時代に割譲された燕雲十六州、つまりいまの北京から大同にかけての土地を押さえていた。南には南唐や後蜀などの国が分立していた。

郭威は後漢の重臣だったが、950年、若い皇帝に疑われ、都の開封にいた一族を皆殺しにされた。柴栄の妻と幼い子どもたちも、このとき殺された。郭威は兵を率いて都に攻め上り、翌951年に後周を建てた。柴栄は養父の下で地方の軍を預かり、やがて都の長官として政治を学んだ。

954年の初め、郭威が死に、33歳の柴栄が帝位を継いだ。それを見て、北の北漢の君主が遼の援軍を得て攻め込んできた。新しい皇帝は若く、侮りやすいと見たのである。両軍は山西の高平でぶつかった。戦いが始まってまもなく、後周の右翼の将軍たちが兵を率いて逃げ出し、軍は崩れかけた。柴栄は自ら馬を進めて矢の飛び交う最前線に立ち、近衛の兵を励まして反撃させた。このとき目覚ましい働きを見せた若い将校の一人が趙匡胤だった。戦いは後周の大勝に終わった。

勝利のあと、柴栄は逃げ出した将軍たちとその部下の指揮官、合わせて70人あまりを斬った。そのうえで軍を大きく作り直した。弱い兵や老いた兵を除き、各地から精強な者を選んで、皇帝の直属の近衛軍を強化した。地方の軍閥に頼らず、皇帝自身が最も強い軍を持つという形は、のちの宋に受け継がれていく。

955年には仏教を厳しく整理した(後周世宗の廃仏)。国の認可を受けていない寺院を数千も廃し、勝手に出家することを禁じ、寺の銅像や仏具を集めて銭を鋳た。民の暮らしに要る銅を、像のために眠らせておくわけにはいかないと考えたのである。仏が自分の身を捨てても人を救おうとしたのなら、像を溶かして民を救うことも仏の心にかなう、という意味のことを語ったと伝えられる。

続いて、領土を広げる戦いを始めた。重臣の王朴は、まず豊かな南を取り、それから北に向かうべきだと献策した。955年、西の後蜀から四つの州を奪った。956年から958年にかけては三度にわたって南唐を攻めた。淮河のほとりの寿州の城は一年以上持ちこたえたが、最後には落ち、南唐は長江より北の淮南の14州を差し出した。南唐の君主は皇帝の称号をやめて国主と名乗り、後周の年号を使うことになった。後周は塩の産地を含む豊かな土地を手に入れた。

国の中も整えた。都の開封の城壁の外側に新しい城壁を築いて町を広げ、運河の汴河を浚って水運を通した。新しい暦を作らせ、法令を整理し、荒れた土地に農民を呼び戻した。のちに宋の都として栄える開封の町の骨組みは、この時期に作られた。

959年、柴栄はいよいよ北の遼に向かった。軍を率いて河北を北上すると、遼の守りは崩れ、四十日あまりのうちに、燕雲十六州のうちの瀛州と莫州を含む三つの州と、三つの関所を取り戻した。柴栄はさらに幽州、いまの北京へ進もうとした。だがそのとき病に倒れ、開封へ引き返した。

戻る途中、柴栄は文書の袋の中から、「点検、天子となる」と書かれた木の札を見つけたという。点検とは、近衛軍の総司令官である殿前都点検のことである。柴栄はその職にあった義理の弟の張永徳を退け、代わりに趙匡胤を任じた。959年6月、柴栄は39歳で死んだ。跡を継いだ息子の柴宗訓はまだ7歳だった。半年後の960年正月、趙匡胤は部下の兵たちに担がれて帝位につき、宋を建てた(宋の成立)。趙匡胤(宋の太祖)は、かつての主君の子を殺さず、柴氏の一族を厚く遇したと伝えられる。のちの小説『水滸伝』に登場する柴進は、その子孫という設定である。

柴栄は、十年で天下を切り開き、十年で民を養い、十年で太平をもたらしたい、と語ったと伝えられる。最初の十年すら与えられなかった。宋はその後、南唐などの南の国々を併せて統一を果たしたが、燕雲十六州の残りは、二度の北伐でも取り戻せなかった。もし柴栄があと数年生きていれば、と惜しむ声は、宋の時代からあった。

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