概要
11世紀初め、北宋の真宗が、ベトナム中部の占城(チャンパ)から早稲の種籾を取り寄せ、江南に配って栽培を奨励した。干魃に強く、100日ほどで実る。それまで一年一作だった土地で二期作ができ、丘陵にも田を開けるようになった。宋代の人口は、この時期に倍増して1億を超えた。米が余れば、人は都市へ出て、別の仕事に就ける。宋の都市と商業と貨幣経済は、この稲の上に立っている。
場所
30.25°N 120.17°E · 中国・浙江省
本文
**問題**。
10世紀の中国。華北の小麦・粟の地帯から、江南(長江下流)の稲作地帯へ、経済の重心が移りつつあった。
しかし、江南の稲は、**生育期間が長い**。田植えから収穫まで150日以上。だから、一年に一作しかできない。
そして、**水を要る**。水の便の悪い丘陵は、稲作に使えない。
**占城(チャンパ)**。
いまのベトナム中部にあった、チャム人の王国。海の交易で栄え、林邑・環王・占城と、中国の史書で呼び名が変わる。
そこに、早く実る稲があった。
**1012年**。
『宋史』食貨志。真宗の大中祥符5年。
その年、江淮と両浙(長江下流域)が**干魃**に見舞われた。
真宗は、福建から占城の稲の種3万斛を取り寄せさせ、これらの地域に配った。そして、栽培の方法を書いた文書を添えて、宮中で栽培の見本を示した。
(福建には、それ以前から占城稲が入っていた。1012年は「国家が政策として広めた年」である。)
**性質**。
- **早熟**。100日前後で実る(在来種は150日以上)。後の品種改良で、60日、40日で実るものも出た。 - **耐旱**。水が少なくても育つ。 - **痩せた土地でも実る**。
**帰結**。
**(1)二期作**。一年に二度、米が取れる。あるいは、早稲を刈った後に麦や豆を作る(稲麦二毛作)。
**(2)耕地の拡大**。丘陵地、山の斜面の棚田、水の便の悪い土地が、田になった。
福建と江西と浙江の山あいに、棚田が広がった。
**(3)人口**。
北宋の初め(980年頃)、中国の人口は推定6000万人程度。北宋末(1100年頃)には、**1億を超えた**とされる。
(戸籍の数字の解釈には幅がある。しかし、倍増に近い増加があったことは、諸説がおおむね一致する。)
**(4)都市と商業**。
食料が余れば、農業以外の仕事に就ける人が増える。
北宋の開封、南宋の**臨安(杭州)**は、人口100万を超えた。当時、世界最大の都市である。
『東京夢華録』(開封)と『夢粱録』(臨安)に、その様子が書かれている。夜通し開いている市。飲食店。屋台。娯楽の場(瓦子)。
そして、**貨幣経済**。銅銭が大量に鋳造され、足りなくなって、世界最初の**紙幣**(交子、後の会子)が生まれた。
**(5)南への重心の移動**。
「**蘇湖熟すれば天下足る**」(蘇州と湖州が豊作なら、天下が食える)という諺が、この時代に生まれた。
(明代には「湖広熟すれば天下足る」に変わる。稲作の中心が、さらに内陸の湖南・湖北へ移った。)
華北が金と元に奪われた後も、南宋が150年もったのは、この生産力による。
**技術**。
同じ時期に、農具と技法も進んだ。
- **秧馬**(田植えのときに乗る、そりのような道具。蘇軾が詩に詠んでいる) - 深耕のための犂の改良 - 揚水のための**竜骨車**(踏み車) - 苗代を使う**移植栽培**の普及(直播きより収量が上がり、田の使用期間が短くなる) - 肥料(人糞、油粕、石灰)
『陳旉農書』(1149年)が、これらを体系的に記述している。
**その後**。
明清期、さらにアメリカ大陸から**トウモロコシ、サツマイモ、落花生**が入った。これらは、稲も麦も育たない乾いた山地で育つ。
清代の人口爆発(17世紀末の1億5000万から、19世紀半ばの4億へ)は、この二段目の作物革命による。
そして、山を開いた結果、土砂が流れ、河川が埋まり、洪水が増えた。
**歴史学の論点**。
日本の宋代史研究(宮崎市定ら)が唱えた「**唐宋変革**」——貴族制の終わり、科挙官僚制、都市と貨幣経済、印刷、そして庶民文化——の物質的な基盤として、この稲がしばしば挙げられる。
エリック・ジョーンズやマーク・エルヴィンは、宋代の中国が「産業革命の一歩手前」まで行きながら、そこで止まったことを論じた(エルヴィンの「**高水準均衡の罠**」——人力が安く豊富なので、機械を作る動機が生まれない)。
一粒の稲が、それだけを引き起こしたわけではない。しかし、それがなければ、何も起きなかった。