できごと

占城稲の導入

Champa rice
AD1012年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民キメク=キプチャク可汗国遼(契丹)宋チベットラージプートの諸王国西夏チョーラ朝チャールキヤ朝南詔シュリーヴィジャヤパーラ朝南詔と大理日本ヒンドゥーと仏教の小国群プラティーハーラ朝高麗パガン朝クメール帝国アイヌカリンガHaripunjayaSenas大越チャーハマーナ朝チャンパドヴァーラヴァティーAD1012年杭州(臨安)
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概要

11世紀初め、北宋の真宗が、ベトナム中部の占城(チャンパ)から早稲の種籾を取り寄せ、江南に配って栽培を奨励した。干魃に強く、100日ほどで実る。それまで一年一作だった土地で二期作ができ、丘陵にも田を開けるようになった。宋代の人口は、この時期に倍増して1億を超えた。米が余れば、人は都市へ出て、別の仕事に就ける。宋の都市と商業と貨幣経済は、この稲の上に立っている。

場所

杭州(臨安)
30.25°N 120.17°E · 中国・浙江省

本文

十世紀から十一世紀にかけての中国では、国の経済の重心が、北から南へ移りつつあった。古くから中国の中心だった華北は、小麦や粟を育てる畑作の地である。一方、長江の下流の江南は、水に恵まれた稲作の地だった。隋の時代に大運河が開かれ(大運河の完成)、江南の米が北の都へ運ばれるようになってから、南の比重は年を追って増していた。

ただし、当時の江南の稲には弱みがあった。育つのに時間がかかるのである。苗を植えてから刈り取るまで、半年近くを要する品種が多く、一年に一度しか収穫できない。しかも、たっぷりの水を必要とした。川や水路から水を引ける平地でなければ育たず、水の便の悪い丘や山の斜面は、稲作に使えなかった。日照りの年には、収穫が大きく落ち込んだ。

杭州の衛星写真
杭州の衛星写真Wikimedia Commons Original uploader was Die Harmonie der Welt at zh.wikipedia · Public domain

南の海の向こう、いまのベトナム中部に、チャム人の王国があった(チャンパ)。海の交易で栄えた国で、中国の史書では時代によって林邑、環王、占城と呼び名が変わる。宋の時代の呼び名が占城である。このチャンパには、早く実る稲があった。

『宋史』によれば、1012年(大中祥符5年)、長江の下流から淮河にかけての地方と、いまの浙江の一帯が、日照りに見舞われた。宋の三代皇帝の真宗は、南の福建から占城の稲の種籾を三万斛取り寄せ、これらの地方に配って植えさせた。あわせて、育て方を書いた文書を配り、宮中の庭でも試しに植えて、その育ち方を役人たちに示したという。

杭州の風景
杭州の風景Wikimedia Commons Qian Yueyou · Public domain

占城の稲は、このとき初めて中国に入ったわけではない。海の交易を通じて、福建ではそれ以前から作られていた。1012年は、それを国が政策として広く広めた年である。

占城稲には、いくつもの長所があった。まず、早く実る。苗を植えてから百日ほどで刈り取れた。中国の農民たちはこれを改良し、のちには六十日ほどで実る品種まで作り出している。次に、日照りに強い。水が少なくても育つ。そして、やせた土地でもそれなりに実った。米の味は在来の稲に劣ると言われ、値段も安かったが、量が取れることが何よりだった。

早く実る稲は、農業の暦を変えた。一年のうちに、同じ田で二度、稲を作ることができる地域が出てきた。あるいは、早く実る稲を刈った後に、麦や豆を植える。一つの田から一年に二度の収穫を得る二毛作が、江南の各地に広がっていった。

日照りに強い稲は、耕せる土地を広げた。それまで稲作に向かなかった丘の上や山の斜面にも、田が開かれた。福建や江西、浙江の山あいには、斜面を階段状に削った棚田が広がっていった。同じ時代、田植えの作業を楽にする道具や、水を高いところへ汲み上げる足踏みの水車も広まった。苗代で苗を育ててから田に植え替えるやり方も普及し、苗を植えるときに乗る、そりのような道具は、詩人の蘇軾が詩に詠んでいる。南宋の1149年に書かれた『陳旉農書』は、こうした江南の稲作の技術をまとめた書物である。

米が多く取れるようになると、人が増えた。宋が建国したころ(宋の成立)、中国の人口は六千万人ほどだったと推定されている。それが、北宋の終わりの十二世紀初めには、一億を超えたとされる。戸籍の数字をどう読むかには幅があるが、百年あまりの間に人口がほぼ倍になったという点では、多くの研究者の見方が一致している。

食べ物が余れば、畑を耕す以外の仕事に就ける人が増える。人々は町に集まり、職人や商人、運び屋、役人になった。北宋の都の開封や、南宋の都になった臨安(いまの杭州)は、人口が百万に達したとも言われ、当時の世界で指折りの大都市になった。開封の繁栄を描いた絵巻や、都の暮らしを懐かしんで書かれた記録には、夜通し開いている市場、立ち並ぶ料理屋や屋台、芝居や曲芸を見せる盛り場の様子が描かれている。

商いが盛んになれば、お金が要る。宋は銅銭を大量に鋳造したが、それでも足りなかった。四川では、銭の代わりに紙の手形が使われるようになり、やがて国が発行する世界最初の紙幣が生まれた(交子(世界最初の紙幣))。印刷の技術も広まり(宋の活字と羅針盤)、科挙の試験に備える書物が大量に刷られた。

「蘇湖熟すれば天下足る」という言葉が、この時代に生まれた。江南の蘇州と湖州が豊作なら、天下の人が食べていける、という意味である。のちの明の時代には、「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになる。稲作の中心が、さらに内陸の湖南や湖北へ広がったことを示している。1127年に華北を北方の金に奪われた後も、南宋が百五十年にわたって国を保てたのは、この江南の豊かな生産力があったからだった。

その後の中国では、もう一度、作物による大きな変化が起きる。明から清にかけて、アメリカ大陸からトウモロコシやサツマイモ、落花生が伝わった(コロンブス交換)。これらは、稲も麦も育たない乾いた山地でも育つ。清の時代の人口は、十七世紀の終わりに一億数千万だったものが、十九世紀の半ばには四億を超えた。だが山の斜面を切り開いた結果、土が雨で流れ出し、川が埋まり、洪水が増えるという代償も払うことになった。

日本の東洋史学では、内藤湖南が唱え、宮崎市定らが発展させた「唐宋変革」という見方がある。唐から宋にかけて、貴族が支配する社会が終わり、科挙で選ばれた官僚が国を動かすようになり(宋の科挙と士大夫)、都市と貨幣の経済が栄え、庶民の文化が花開いた。その大きな変化を支えた物質の土台として、しばしば挙げられるのが、占城稲がもたらした米の増産である。

欧米の歴史家の中には、宋の中国が、産業革命の一歩手前まで行きながら、そこで止まった理由を論じた人々もいる。その一人、マーク・エルヴィンは、人口が多く、人の手が安く豊富に使えたので、手間を省く機械を作る動機が生まれなかったのではないか、と考えた。一粒の稲が、これだけのことをすべて引き起こしたわけではない。だが、あの早く実る稲がなければ、宋の都市も、紙幣も、繁栄も、あれほどの規模にはならなかっただろう。

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