岳飛
概要
農民の子から将軍になり、金の軍を何度も破った。北伐の途中で12回の召還命令を受けて引き返し、獄で殺された。39歳。杭州の墓の前に秦檜夫婦の鉄像が跪き、人々が唾を吐く。
所属
宋関わったできごと(1)
紹興の和議と岳飛の死AD1141年 · 殺された将軍本文
1103年、河南の相州湯陰(いまの河南省安陽市)の農家に生まれた。『宋史』によれば、生まれるとき大きな鳥が鳴きながら家の上を飛んでいったので、飛と名づけられた。生まれて間もなく黄河が溢れ、母は赤ん坊を抱いて大きな甕の中に座り、流されて助かったという。家は貧しかったが、岳飛は書物を好み、とりわけ『春秋左氏伝』と兵法書を読んだ。生まれつき力が強く、弓の名手について弓術を学んだ。
岳飛が成人した頃、宋は北方で大きな賭けに出ていた。完顔阿骨打が建てた新興の金と結んで遼を挟み撃ちにし、燕雲十六州を取り戻そうとしたのである。1122年、宋が遼を攻めるため兵を募ると、20歳の岳飛はそれに応じた。だが宋は遼にさえ勝てず、金はやがて約束を破った宋に矛先を向けた。1127年、金は都の開封を落とし、二人の皇帝を北へ連れ去った(靖康の変)。皇族でただ一人逃れた趙構が南で即位して高宗となり、宋は長江の南へ逃れた。これがのちに南宋と呼ばれる。

岳飛は、黄河の防衛を指揮していた老将・宗沢に見出された。宗沢は高宗に都へ戻って北を取り返すよう何度も求めたが聞き入れられず、失意のうちに死んだ。岳飛もまた、高宗に北伐を求める上書をして官を退けられたことがある。それでも戦場で頭角を現し、1130年には金軍から建康(いまの南京)を取り戻し、30歳になる頃には一軍を率いる将軍になっていた。
岳飛の軍は「岳家軍」と呼ばれ、規律の厳しさで知られた。「凍え死んでも民家を壊して薪にせず、飢え死にしても略奪しない」というのが軍の掟で、民から麻の縄一本を取った兵を斬ったという話もある。兵を手厚く扱い、病んだ兵には自ら薬を調えたと伝えられる。金の兵たちは「山を揺り動かすのはたやすいが、岳家軍を動かすのは難しい」と言ったと『宋史』は書く。

1134年、岳飛は金の傀儡国家・斉から襄陽など六つの郡を取り戻した。1140年、金が和約を破って南下すると、岳飛は北へ兵を進めた。河南の郾城で、金の名将・兀朮(完顔宗弼)が誇る重装の騎兵を迎え撃ち、歩兵に長い刀で馬の脚を斬らせて打ち破った。さらに潁昌でも勝ち、岳家軍の先鋒は開封のすぐ近くまで迫った。開封から45里の朱仙鎮で金軍を破ったという話は有名だが、これについては後世の誇張とみる研究者もいる。
このとき朝廷では、宰相の秦檜が金との和議を進めていた。高宗にとって、北伐は危うい賭けだった。勝って連れ去られた兄の欽宗が戻れば、自分の帝位が揺らぐ。将軍たちが強くなりすぎることへの警戒もあった。宋は建国以来、武人の力を抑えることを国の基本としてきたからである。岳飛のもとには、軍を引いて戻れという命令が次々と届いた。『宋史』によれば、一日に12枚の金字の札が送られてきた。岳飛は「10年の功が一日で無に帰する」と嘆き、兵を返した。彼が去ると、取り戻した土地はすぐ金の手に戻った。

1141年、高宗と秦檜は、岳飛、韓世忠、張俊の三人の大将を中央の高官に任じ、その代わりに軍を取り上げた。そして岳飛の部下を脅して、岳飛が謀反を企てていると訴えさせ、岳飛と息子の岳雲、部将の張憲を獄に入れた。取り調べの役人が衣を脱がせると、岳飛の背中には「尽忠報国」の四字が深く刻まれていた、と史書は伝える。母が刺したという有名な話は、のちの小説で作られたものである。
韓世忠は秦檜に詰め寄り、岳飛に何の罪があるのかと問うた。秦檜の答えは「莫須有(あったかもしれない)」だった。韓世忠は「その三文字で、どうして天下を納得させられるのか」と言ったと『宋史』は書く。同じ年の暮れ、宋は金と和議を結んだ(紹興の和議と岳飛の死)。淮河を国境とし、宋は金に臣下の礼を取り、毎年銀と絹を贈ることになった。

1142年1月、岳飛は獄中で死を賜った。数えで39歳だった。殺された方法は毒とも、絞殺とも言われる。岳雲と張憲は斬られた。一人の獄卒がひそかに遺体を背負って運び出し、葬ったと伝えられる。
高宗が退いて孝宗が即位すると、1162年、岳飛の名誉は回復され、遺骨は杭州の西湖のほとりに改めて葬られた。のちに王の位を追贈され、墓のそばには岳王廟が建てられた。明代には、墓の前に、縛られてひざまずく秦檜夫妻らの鉄の像が置かれ、参拝者が唾を吐きかけたり打ったりするようになった。像は何度も作り直されている。

岳飛は、のちの中国で忠義の英雄の代表になった。清代の小説『説岳全伝』や数多くの芝居が、その物語を広めた。岳飛の作として伝わる詞『満江紅』は、飢えては異民族の肉を食らい、渇いては匈奴の血を飲む、という激しい言葉で知られ、20世紀の抗日戦争の時代にも歌われた。ただしこの詞は明代になって初めて現れるため、後世の作とする説も根強い。
岳飛が戦った金は女真の国で、女真はのちに清を建てた。清の時代、岳飛の物語は微妙な扱いを受けた。現代の中国でも、多民族の「中華民族」の内側の争いに「民族英雄」の呼び名は合わない、という議論が起こったことがある。国を守ろうとして、守るべき国の手で殺された将軍は、時代ごとに違う意味を背負わされてきた。