できごと

曹操の屯田

Tuntian
AD196年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢サカ族の王国ヒンドゥーの諸王国スーレーン家の王国クシャーナ朝サータヴァーハナ朝弥生カリンガ高句麗南匈奴アイヌYuebanチャンパ新羅シンハラAD196年許昌
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD196年の版図を描いています(17勢力)。

概要

戦乱で荒れた田に、兵と流民を入れて耕させ、収穫の半分(官の牛を使う者からは6割)を取った。1年で100万石。「国を定める術は、兵を強くし食を足すことにある」。曹操が勝った理由は、戦の前に米があったことになる。

場所

許昌
34.03°N 113.85°E · 中国・河南省

関わった人(1)

曹操155年–220年3月15日 · 命じた

本文

後漢の末、184年の黄巾の乱をきっかけに、中国は長い戦乱に入った。190年には董卓が都の洛陽を焼き払い(董卓の洛陽焼き討ち)、華北の平原では、群雄たちがたがいに争った。戦が続けば田は荒れ、農民は殺されるか逃げ散る。曹操はのちに、その光景を詩に詠んでいる。白骨が野にさらされ、千里のあいだ鶏の鳴く声も聞こえない、と。

食べ物の無いのは、軍も同じだった。三国時代の歴史書『三国志』に付けられた注が引く記録によれば、袁紹の兵は河北で桑の実を食べ、袁術の兵は長江と淮河の間で、蒲の根や貝を拾って飢えをしのいだという。当時の軍は、通りかかった土地から奪って食べるのが常だった。だが、奪い尽くせば、次に奪う村は無い。食べるものが尽きた軍は、敵と戦う前に、自分から崩れていった。

曹操の肖像
曹操Wikimedia Commons Wang Qi · Public domain

196年、曹操は、流浪していた後漢の献帝を自分の本拠に近い許(のちの許昌)に迎え、皇帝を手元に置く立場を得た。この年、部下の棗祗と韓浩が、屯田を始めるよう進言した。屯田は、もともと前漢の時代から、北や西の辺境で兵士に田を耕させ、守りの軍の食べ物を現地でまかなう制度だった。それを、戦乱で持ち主のいなくなった内地の田で行おうというのである。

曹操はこの進言を取り上げ、許のまわりの荒れた田に、行き場を失った流民を集めて耕させた。耕す人には、国が田と種と牛を貸し与えた。そのかわり、国の牛を使う者は収穫の6割を、自分の牛を使う者は5割を納めた。重い取り分だが、戦乱の中で、耕す土地と身の安全を与えられることは、流民にとって何よりの救いだった。その年のうちに、許のまわりだけで穀物100万斛が得られたと記録されている。曹操は、各地の州や郡にも田の役人を置いて、屯田を広げた。

許昌の乾明寺の塔
許昌の乾明寺の塔Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

屯田を取り仕切ったのは、任峻という人物だった。彼は典農中郎将という役に就き、数年のうちに、各地の倉に穀物が積まれるようになった。記録は、これによって軍と国の費用は足り、四方に兵を出しても、遠くから食べ物を運ぶ苦労が無くなった、と書く。曹操は、その4年ほど前に、青州で降伏した黄巾の兵30万あまりと、その家族を受け入れ、精鋭を選んで「青州兵」としていた。こうした降伏した人々が、屯田の働き手の一部になったと考える研究者もいる。

200年、曹操は、河北の4州を押さえる袁紹と、黄河のほとりの官渡で対決した(官渡の戦い)。兵の数でも土地の広さでも、袁紹がはるかにまさっていた。戦は長引き、曹操の軍も食べ物が乏しくなって、都に退くことを考えたほどだった。勝負を決めたのは、袁紹の兵糧を蓄えた烏巣を、曹操が自ら兵を率いて夜襲し、焼き払ったことである。兵糧を失った袁紹の軍は崩れた。この戦いは、食べ物を持つ側が勝つという、屯田の考えそのものを示す戦いでもあった。曹操は、兵法書『孫子』の兵法に注を付けたことでも知られる。その本文には、輜重の無い軍、食べ物の無い軍は滅びる、という言葉がある。

『孫子』の兵法に関わる図版:Bamboo book - unfolded - UCR
『孫子』の兵法Wikimedia Commons vlasta2, bluefootedbooby on flickr.com · CC BY 2.0

曹操の死(曹操の死)のあとも、魏は屯田を続けた。240年代には、鄧艾の献策で、呉と境を接する淮河の流域に兵による屯田が開かれ、運河が掘られて、呉と戦うための兵糧が蓄えられた。だが、民による屯田は、重い取り分と、役人による使い立てで、しだいに耕す人の逃亡を招いた。魏の末の264年、民による屯田は廃止され、耕していた人々はふつうの農民に戻された。その翌年、魏は司馬炎に国を譲り、晋が生まれる(司馬炎の晋建国)。

戦場の英雄の物語として語られることの多い三国の鼎立の時代だが、そこで最初に勝ちを分けたのは、戦の前に田を耕したかどうかだった。兵を養い、民を土地に戻すという屯田の考えは、その後の中国の王朝にも、形を変えて受け継がれていく。

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