できごと

ニクソン訪中

Nixon visits China
AD1972年2月21日
重要度 5
ニクソン訪中に関わる図版:President Richard Nixon and Premier Chou En-Lai Shake Hands at the Nixons' Arrival in Peking, China - DPLA - 315dbcc0e8b
President Richard Nixon and Premier Chou En-Lai Shake Hands at the Nixons' Arrival in Peking, China - DPLA - 315dbcc0e8b Wikimedia Commons President (1969-1974 : Nixon). White House Photo Office. 1969-1974, General Services Administration. National Archives a · Public domain

概要

反共の大統領が、国交のない国へ。空港で周恩来と握手した。ダレスが1954年に拒んだ握手。毛沢東と1時間。万里の長城。上海コミュニケ。「一つの中国」。ソ連への牽制。テレビ生中継。「世界を変えた週」。日本は頭越しに知らされた。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(4)

リチャード・ニクソンAD1913年1月9日–AD1994年4月22日 · 訪問毛沢東AD1893年12月26日–AD1976年9月9日 · 会った周恩来AD1898年3月5日–AD1976年1月8日 · 迎えたヘンリー・キッシンジャーAD1923年5月27日–AD2023年11月29日 · 仕組んだ

本文

1972年2月21日の昼前、北京の空港に、アメリカ大統領の専用機が降り立った。タラップを降りてきたリチャード・ニクソン大統領は、出迎えた周恩来首相に自分から手を差し出し、握手した。アメリカと中華人民共和国のあいだには、まだ国交がなかった。20年以上互いを敵と呼び合い、朝鮮戦争では直接銃火を交えた二つの国の首脳が、初めて顔を合わせた瞬間だった。

1949年に共産党が中国大陸を制し、国民党の政府が台湾に逃れると、アメリカでは「誰が中国を失ったのか」という激しい非難が起きた。アメリカは台湾の中華民国を中国の正統な政府として認め、北京の政府を承認せず、国連でも中国の席は台湾が占め続けた。若い議員だったニクソンは、共産主義に甘い者を厳しく追及する反共の闘士として名を上げた政治家だった。その彼が、中国と手を結ぶことになる。

ニクソンの考えが変わり始めたのは、1960年代の後半である。1967年、彼は外交誌に寄せた論文で、中国を国際社会の外に永遠に置いておくことはできない、と書いた。1969年に大統領になると、補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに、中国に近づく道を探り始めた。背景には二つの事情があった。一つは泥沼のベトナム戦争から抜け出す道を探していたこと。もう一つは、中国とソ連の決定的な対立である。同じ共産主義の大国どうしは1960年ごろから論争を深め、1969年3月にはウスリー川の島をめぐって国境で軍が衝突した(中ソ国境紛争)。ソ連の脅威を感じた中国の毛沢東にとっても、アメリカに近づくことはソ連を牽制する手段になった。文化大革命の混乱のさなかではあったが、両国の利害は一致し始めていた。

ベトナム戦争に関わる図版:U.S. Army UH-1H Hueys insert ARVN troops at Khâm Đức, Vietnam, 12 July 1970 (79431435)
ベトナム戦争Wikimedia Commons U.S. Air Force (Operation Holly 1970 (Folder 13 of 15), sheet 182) · Public domain

最初に扉を開いたのは卓球だった。1971年春、名古屋で開かれた世界卓球選手権で、アメリカの選手が中国チームのバスに乗り合わせ、中国のスター選手から贈り物を受け取ったことがきっかけとなって、4月、中国はアメリカの卓球チームを招いた。「ピンポン外交」である。

1971年7月、キッシンジャーはアジアを歴訪する途中、パキスタンで体調を崩したと見せかけて姿を消し、パキスタン航空機で極秘に北京へ飛んだ。周恩来との2日間の会談で、大統領の訪中が決まった。7月15日、ニクソンはテレビで、自分が中国を訪問すると発表し、世界を驚かせた。最も衝撃を受けた国の一つは日本だった。アメリカの最も近い同盟国として、アメリカに歩調を合わせて北京を承認せずにきた佐藤栄作政権に、知らせが届いたのは発表の直前だった。この頭越しの発表は、翌月のドルと金の交換停止とあわせて「ニクソン・ショック」と呼ばれた。10月には国連総会で、中国の代表権を北京の政府に与える決議が採択され、台湾の中華民国は国連を去った。

晩餐会でニクソン大統領を歓待する周恩来総理。
晩餐会でニクソン大統領を歓待する周恩来総理。Wikimedia Commons White House Photographer · Public domain

そして1972年2月21日、ニクソンは北京に降り立った。空港での握手には、伝えられている因縁があった。1954年のジュネーヴ会議で、アメリカのダレス国務長官は周恩来が差し出した手を握らなかった、と語り継がれていたのである。ニクソンは回想で、自分が手を差し出したとき、一つの時代が終わり、別の時代が始まったと感じたと書いている。

その日の午後、ニクソンは中南海の毛沢東の書斎に招かれた。毛は体調が悪かったが、予定を大きく超えて1時間ほど話した。毛は具体的な外交問題には深入りせず、哲学的な話を好み、自分は右派が好きだ、と冗談めかして言ったと会談の記録は伝えている。共和党の保守派の大統領だからこそ、中国と手を結べるのだという含みだった。

リチャード・ニクソン大統領と共に北京を訪問したパット・ニクソン大統領夫人。
リチャード・ニクソン大統領と共に北京を訪問したパット・ニクソン大統領夫人。Wikimedia Commons Byron Schumaker · Public domain

1週間の滞在は、アメリカのテレビで生中継された。アメリカの視聴者は、宴の席で茅台酒で乾杯する大統領や、万里の長城に立ち、これは偉大な壁だ、と感嘆する大統領の姿を見た。北京から杭州、上海へと移りながら、両国の代表は共同声明の文案を詰め続けた。

2月27日、上海で共同声明がまとまり、翌28日に発表された。「上海コミュニケ」である。この声明は異例の形をとった。両国の意見が一致しない点を、それぞれの立場として並べて書いたのである。最も難しかったのは台湾の問題だった。アメリカは、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを「認識する」と書いた。認めるとも、同意するとも書かない。どちらにも受け取れるこの一語が、その後50年にわたって、アメリカの台湾政策の土台になった。

ニクソンと毛沢東を描いたアジュマーン発行の切手(1972年)
ニクソンと毛沢東を描いたアジュマーン発行の切手(1972年)Wikimedia Commons Post of Ajman · Public domain

ニクソンは上海での最後の宴で、この訪問を「世界を変えた1週間」と呼んだ。言葉は大げさではなかった。中国と和解したアメリカに対して、ソ連は関係の改善を急ぎ、同じ年の5月、ニクソンはモスクワを訪れて戦略兵器の制限の協定に調印した。アメリカ、ソ連、中国の三つの大国が互いに牽制し合う構図が生まれ、物語「冷戦」は東西の二極の対立から、三角形の力の駆け引きへと形を変えた。

日本も素早く動いた。佐藤の後を継いだ田中角栄首相は、1972年9月に北京を訪れ、日本は一気に中国との国交を正常化した(日中国交正常化)。アメリカ自身が中国と正式に国交を結んだのは、それより遅い1979年1月1日のことで、その時ニクソンはすでにウォーターゲート事件で大統領の座を去っていた。

リチャード・ニクソン大統領の肖像
リチャード・ニクソン大統領の肖像Wikimedia Commons Department of Defense. Department of the Army. Office of the Deputy Chief of Staff for Operations. U.S. Army Audiovisual · Public domain

その後の歴史は、この訪問の意味をさらに大きくした。毛沢東が1976年に死んだのち、鄧小平のもとで中国は改革と開放に乗り出し、アメリカとの経済的な結びつきを深めて世界の大国へと成長していく。ニクソンは辞任後も何度か中国を訪れ、北京の指導者たちから「古い友人」として迎えられた。反共の闘士だった大統領が共産中国の扉を開いたことから、英語には「ニクソンだけが中国に行けた」という言い回しが生まれた。強硬派と見られた者だからこそ、敵との和解を国内に納得させられる、という意味である。日本では今も、同盟国の頭越しに大国どうしが手を結ぶことへの警戒を語るとき、この訪中が引き合いに出される。

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