纏足

概要
南唐の宮廷の踊り子から始まった、と伝える。宋代に広まり、明清に、漢族の女の大半に及んだ。4〜6歳で、親指以外の指を足の裏へ折り曲げて布で縛り、骨を変形させる。歩けるが遠くへ行けない。「三寸金蓮」。母が娘に施した。良い縁組の条件で、階級の印で、恥じらいの象徴だった。満洲族とモンゴル族と客家はしなかった。1902年に清が禁令を出し、20世紀の前半に消えた。最後の世代が、いま100歳を超える。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
本文
纏足がいつ始まったのかは、はっきりしない。最もよく語られるのは、10世紀の南唐の最後の君主李煜(南唐後主)の宮廷の話である。踊り子の窅娘が白い絹で足を細く縛り、金で作った蓮の花の台の上で踊った、という。ただしこれは後の時代に書かれた伝えで、確かめようがない。確かなのは、宋の時代、11世紀から13世紀に、上流の女性の間で足を小さく見せる風習が広まったことである。13世紀の宋の女性の墓からは、先の尖った小さな靴が見つかっている。北宋の都開封の宮廷や妓楼で始まり、やがて上流の家へと広がっていったと考えられている。
時代が下るにつれ、纏足は広く深く根を下ろした。元から明へ、明から清へと受け継がれ、清の時代には、地域によって差はあるものの、漢人の女性の大半が足を縛るようになっていた。上流の家だけではない。農村の娘たちも縛られた。

やり方は残酷だった。縛り始めるのは4歳から6歳くらい、骨がまだ柔らかい頃である。母や祖母が、娘の足を湯と薬草で洗い、親指以外の4本の指を足の裏の側へ折り曲げ、長い布できつく巻く。足の甲を高く盛り上げ、かかととつま先を近づけるように締め上げる。数日ごとに巻き直し、少しずつきつくしていく。指の骨は折れて足の裏に食い込み、傷は膿み、肉が腐ることもあった。2、3年で形が固まる。理想とされたのは「三寸金蓮」、長さ3寸(約10センチ)の金の蓮のような足だった。
纏足の女性は、かかとに体重をかけて、小さな歩幅で揺れるように歩く。その歩き方そのものが、たおやかな美しさとされた。小さな足は、性的な魅力の対象でもあった。布を解いた素足を見せることは、きわめて親密な行為とされ、纏足の足を愛でる詩や文が数多く書かれた。

それはまた、家柄と縁組の条件だった。足の大きな娘は良い家に嫁げない、と考えられた。母親たちは、娘が泣き叫ぶのを聞きながら、娘の将来のために布を締めた。纏足は、女性が家の内にいるべきだという規範を、体に刻みつけるものでもあった。遠くへは歩けず、逃げることもできない。
もっとも、纏足をした女性が働かなかったわけではない。近年の研究では、農村の多くの娘たちが、縛られた足で座ったまま、糸を紡ぎ、布を織り、家の収入を支えていたことが指摘されている。娘を家に座らせて手仕事をさせることと、足を縛ることが結びついていた、という見方である。

纏足をしない人々もいた。清を建てた満洲人は、自分たちの女性に纏足を禁じた。清の初めには漢人にも禁じようとしたが、従わせることができず、数年で取り下げている。モンゴル人や多くの少数民族、それに女性が畑仕事の担い手だった客家の人々も、足を縛らなかった。
批判の声は、古くからあった。清の小説家李汝珍は『鏡花縁』で、男が女の役を負わされて足を縛られる国を描き、風習の不条理を突いた。19世紀半ばの太平天国の乱は、支配した地域で纏足を禁じている。19世紀の後半には、キリスト教の宣教師や中国人の信徒が、纏足をやめる会を作った。1898年には改革派の康有為が、纏足は国の弱さの一因であり、外国の嘲りを招いていると皇帝に上奏した。纏足をやめることは、国を強くする改革の一部として語られるようになった。

1902年、清の朝廷は纏足をやめるよう勧める命令を出し、1912年に成立した中華民国も禁止を打ち出した。都市では、新しい教育を受けた家から纏足が消えていった。だが農村では根強く続き、1920年代から30年代にかけて、地方の役人が家々を回って布を解かせる運動が行われた。すでに形の固まった足を急に解くと、かえって痛みが増すこともあった。工場で作られた安い布が出回り、家で糸を紡ぐ仕事の値打ちが下がったことも、纏足が消えていく背景にあったとする研究がある。1949年の中華人民共和国の成立のころには、新たに足を縛られる娘はほとんどいなくなった。
最後の世代の女性たちは、21世紀の初めまで生きていた。雲南省の村には、纏足の老女たちが集まって踊りを披露する一団があったことも知られている。その姿を記録した写真が、いまも残っている。1000年にわたって、数えきれない女性の体に刻まれた風習は、ほんの数十年で消えた。美しさや家柄の基準として当たり前とされたものが、どれほど深く人を縛りうるかを、纏足は示している。