楊貴妃
概要
玄宗の息子の妃で、道士にされてから玄宗の貴妃になった。荔枝を早馬で嶺南から運ばせた。一族が権力を握り、安禄山の乱で、馬嵬で兵に迫られて縊られた。37歳。白居易が「長恨歌」で歌い、世界三大美女の一人に数えられる。
所属
唐関わったできごと(1)
馬嵬の変AD756年 · 殺された本文
名は玉環。719年の生まれ。父の楊玄琰は蜀(いまの四川)の地方役人だったが早くに死に、玉環は洛陽にいた叔父の家で育った。出身地は蒲州永楽(いまの山西)とも、蜀ともいわれる。735年、17歳(数え)で、玄宗の第18子である寿王李瑁の妃となった。寿王の母は、玄宗が最も寵愛した武恵妃である。

737年に武恵妃が死ぬと、玄宗は深く沈んだ。後宮には数千人の女がいたが、心にかなう者はいなかったと史書は書く。740年、玄宗は驪山の温泉宮で、息子の妃である玉環に出会った。宦官の高力士が引き合わせたとも伝わる。息子の妻を父が奪う形になるため、まず玉環を女道士にして寿王家から離し、宮中の道観に住まわせた。道士としての名は太真である。数年後、寿王には別の妃が与えられ、745年、玉環は貴妃に立てられた。玄宗は61歳(数え)、玉環は27歳だった。皇后の座は20年前から空いていたので、貴妃が後宮の頂点に立った。
貴妃は音楽と舞にすぐれ、琵琶を弾き、玄宗が作ったとされる「霓裳羽衣の曲」に合わせて舞った。玄宗自身も音楽を愛し、宮廷の楽人を育てた皇帝である。二人は毎年冬になると驪山の華清宮で過ごした。後世、彼女はふくよかな美人の代名詞となり、痩せた美女の趙飛燕と並べて「環は肥え、燕は痩せる」と言われた。貴妃が南方の果物の荔枝を好んだので、早馬を乗り継いで鮮度を保ったまま都まで運ばせたという話は有名で、晩唐の詩人杜牧は、馬が赤い土煙を上げて駆けてくるのを見て妃が笑う、それが荔枝を運ぶ馬だとは誰も知らない、とうたった。産地は嶺南とも四川ともいわれる。

寵愛は一族に及んだ。三人の姉はそれぞれ韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人に封じられ、宮中に自由に出入りした。虢国夫人は化粧もせずに馬で宮門をくぐり、それでも美しかったと詩にうたわれた。春の行楽に連なる楊氏の姉妹の豪奢を、杜甫は「麗人行」で皮肉っている。またいとこの楊釗は玄宗から「国忠」の名を与えられ、752年、宰相李林甫の死後に宰相となった。陳鴻の「長恨歌伝」は、当時の人々が、男の子が生まれても喜ぶな、女の子が生まれても悲しむな、女の子こそ家の門を輝かせる、と歌ったと伝えている。
ただ、寵愛は平坦ではなかった。746年と750年の二度、貴妃は玄宗の機嫌を損ねて実家に帰されている。二度目のとき、貴妃は、私の身はすべて陛下からいただいたもの、ただ髪だけは父母から受けたもの、と言って髪を一房切って届けさせた。玄宗はそれを見て驚き、すぐに高力士を遣わして呼び戻したという。

東北の国境では、ソグド人と突厥の血を引く節度使の安禄山が力を伸ばしていた。安禄山は玄宗に取り入り、自分よりずっと年下の貴妃の養子になった。751年、安禄山の誕生日の三日後に、貴妃が彼を赤子の産着でくるみ、宮女たちに担がせて産湯の儀式をまねて戯れた、という話が後世の史書に載る。事実かどうかは分からず、乱の責任を貴妃に負わせる後世の見方が入り込んでいるとみられる。やがて楊国忠と安禄山は激しく対立し、755年、安禄山は楊国忠を除くと称して挙兵した(安史の乱)。
756年6月、反乱軍が潼関を破ると、玄宗は夜明け前にひそかに長安を出て、蜀へ向かった。貴妃と姉たち、楊国忠も従った。都の西の馬嵬の宿駅まで来たとき、飢えと疲れで怒った護衛の兵たちが楊国忠を殺し、さらに禍のもとである貴妃を殺すよう迫った。玄宗はやむなく、高力士に命じて仏堂で貴妃の首を絞めさせた(馬嵬の変)。数えで38歳だった。遺体は馬嵬の道のほとりに葬られた。乱が収まって都に戻った玄宗は、ひそかに改葬させたが、遺体はすでに朽ち、香袋だけが残っていたと『旧唐書』は記す。

50年後の806年、白居易は二人の愛を長編の詩「長恨歌」にうたった(白居易「長恨歌」)。詩の後半では、道士が天の果ての仙山に貴妃の魂を訪ね、貴妃は、天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝となろう、という二人だけの誓いを伝える。この詩は日本にも早く伝わり、『源氏物語』の冒頭の桐壺の巻は、帝の寵愛を受ける更衣を楊貴妃になぞらえている。能「楊貴妃」は、仙界の蓬莱宮で道士に昔を語る貴妃を描く。山口県長門市には、貴妃が馬嵬を逃れて舟で流れ着いたという伝説と墓が残る。
馬嵬の墓の土は、顔に塗ると肌が白くなると信じられ、人々が持ち去るので、のちに煉瓦で覆われたという。国を傾けた美女として責められる一方で、引き裂かれた恋の主人公として哀れまれる。その二つの顔は、唐の栄華が反乱で崩れていく時代の記憶と重なっている。