王昭君
概要
後宮の女性で、匈奴の単于に嫁がされた。絵師に賄賂を渡さず醜く描かれた、という物語は後世の作。草原で二人の単于の妻になり、子を残した。
所属
前漢関わったできごと(1)
王昭君の降嫁BC33年 · 嫁いだ本文
名は嬙(しょう)、昭君は字(あざな)とされる。南郡秭帰(いまの湖北省、長江の三峡のほとり)の人で、良家の娘として前漢の元帝の後宮に入った。生まれた年は記録に無く、紀元前50年ごろと推定されている。後宮には数千人の女性がいたとされ、そのほとんどは皇帝の顔を見ることもなく年を重ねた。彼女も数年、皇帝に会わないままだった。
そのころ、北の草原の匈奴は割れていた。単于の位をめぐって五人が並び立つ争いが起き、敗れかけた呼韓邪単于は、紀元前51年に漢の皇帝に臣従を誓って後ろ盾を得る道を選んだ。かつて漢の初代皇帝を白登山の戦いで包囲し、漢の武帝と数十年戦った匈奴の単于が、自ら長安に頭を下げに来たのである。対立していた兄の郅支単于は、紀元前36年、西域で漢の軍に討たれた。

紀元前33年、呼韓邪単于は三度目の入朝をし、漢の婿になりたいと願い出た。元帝は後宮の女性の中から王嬙を選んで与えた。『漢書』の記述はそれだけだが、のちの『後漢書』は、数年会えないことを悲しみ恨んで、自分から行くことを願い出たと書き、さらに場面を添えている。別れの宴で、皇帝は初めて彼女の姿を見た。その美しさは宮中を照らすほどで、左右の者も心を動かされた。元帝は惜しんで留めたいと思ったが、約束を破ることはできず、そのまま送り出した、という。
よく知られた絵師の話は、さらに後の書物『西京雑記』に出てくる。皇帝は後宮の女性の顔を絵で見て召し出していた。女性たちは絵師に賄賂を贈ったが、王嬙だけは贈らず、醜く描かれた。それで匈奴に嫁がされることになり、真相を知った皇帝は絵師の毛延寿らを処刑した、と。史書には無い話で、後世の創作とみるのが普通である。

草原で、彼女は「寧胡閼氏(ねいこあつし)」と呼ばれた。閼氏は単于の妃の称号で、寧胡は胡(北方の民)を安んじるという意味になる。漢と匈奴の和の証という役目が、名前に込められていた。呼韓邪単于との間に男の子を一人産んだ。のちに匈奴で右日逐王の位に就いている。
結婚から2年ほどで、呼韓邪単于が死んだ。匈奴には、父の死後、息子が生母以外の父の妻を引き継ぐ習わしがあった。新しく単于になったのは呼韓邪の別の妻の長子で、彼女はその妻になるよう求められた。『後漢書』によれば、彼女は漢に帰りたいと上書したが、成帝は「匈奴の習わしに従え」と命じた。彼女は新しい単于の妻となり、娘を二人産んだ。

その後の彼女について、史書はほとんど語らない。死んだ年も分からない。分かるのは、子どもたちが漢と匈奴を結ぶ役を担ったことである。長女の須卜居次(すぼくきょじ)は、漢の朝廷を奪った王莽の時代に長安へ来て、太后に仕えた。王昭君の兄の子たちも、和親の使者として何度も草原へ赴いている。彼女の一族は、二つの世界のあいだで生きることになった。
内モンゴルのフフホト郊外に、昭君の墓と伝わる塚がある。秋になって周りの草が枯れても、その塚だけは青々としている、と言い伝えられ、青冢(せいちょう)と呼ばれた。唐の杜甫は「一たび紫台(宮中)を去りて朔漠に連なり、独り青冢を留めて黄昏に向かう」と詠んでいる。
それから千年以上、彼女は詩と戯曲の主人公であり続けた。李白も白居易も詠み、元の時代には馬致遠の雑劇『漢宮秋』が、元帝と昭君の悲恋として描いた。そこでは昭君は国境の川に身を投げて死ぬ。故郷を離れて異民族の地で暮らす悲しみ、宮廷の不正に翻弄される美女、という読み方が長く続いた。20世紀の中国では、逆に、民族の和合の使者として描き直され、戯曲や記念の像が作られている。
史書が伝える事実は、数行にすぎない。そこから、悲劇の女性も、平和の使者も、語り手の時代の求めに応じて作られてきた。本人が草原の暮らしをどう思っていたのかは、帰国を願った一通の上書のほかに手がかりが無い。